「成功する方法」だけを学んで成功する方法

わたなべ ひろし

「失敗学」というものを提唱している畑村洋太郎さんという方が、『毎日新聞』のインタビューの中で、今の日本が「閉塞感に覆いつくされている感が ある」のは、「約1世紀にわたって追い求めてきたやり方、すなわちうまくゆく方法を徹底的に追及し、それ以外は考えないやり方が壁に当たったから」である ということを述べていた。

畑村さんの言葉を僕なりに言い換えると、「先行する成功者から成功するための方法だけを学び、それを集中的・総力的に実行することで最短で自分も成功する」というのが、日本人の行動様式であるということになるだろうか。

これはいわば「成功マニュアル」方式とでもいったものだ。

この指摘は、畑村さんも言うように、約1世紀にわたる日本社会の近現代を考える上で、非常に大事なことを含んでいると思った。

このような行動様式は、「結果」としての「成功」しか目に入らず、それに至る「プロセス」を軽視することになる。あるいは「プロセス」と いうものが、「成功」のための全くの「手段」に矮小化されてしまう。しかし「プロセス」を軽視した「成功」などというものは、一過性のものに過ぎない。そ んなものは経験として積み重ねられることがないから、せいぜい成功しました、失敗しましたという「結果」が羅列されただけの、ペラペラの歴史しか生み出せ ない。

ところが近年のグローバリゼーション、つまり米国主導の金融市場至上主義などへの日本の対応を見ていると、またぞろこの「成功マニュア ル」方式が強くなってきているような気がしてならない。それどころか、以前はまだ少なくとも「マニュアル」は自前で作成していたのが、最近の場合はそれす らなく、グローバリゼーションの本家本元である米国に全くのオンブにダッコ。マニュアルそのものを提供してもらっているような依存ぶりである。

しかもどうやらこのグローバリゼーションというものは、我が国の「成功マニュアル」方式とは相性がよいというか、指向性がとても似ているようなのだ。

例えば、哲学者の内山節さんが近著のなかで、「資本制商品経済」の特徴について次のように書いている。

「近代的な商品経済とは、商品を生産して売って利益を上げるかたちを軸にしているわけではありません。そうではなく、生産という行為をとおして貨幣量を増 殖させることをめざしているのです。(中略)貨幣からはじまり、増殖した貨幣で終わるのが資本制商品経済の運動ですから、生産→貨幣ではなく、貨幣→生産 →増加した貨幣がこの経済の軸になっています。だから手っ取り早く貨幣を増殖させるためには、何も『生産』を媒介にしなくてもよいわけで、投機的な活動に よって直接貨幣を増殖させてもかまわない、ということになります。」

ここで内山さんの言う「手っ取り早く貨幣を増殖させるためには、何も『生産』を媒介にしなくてもよい」という「資本制商品経済」の特徴を最大化し たものがグローバリゼーションであるとするならば、そこで指向されているものも、「手っ取り早い貨幣の増殖」という「成功」に対する、「商品を生産して販 売する」という「プロセス」の省略化、手段化ということである。

1990年代後半以降、特に小泉政権になってからの日本社会の「グローバリゼーション化」(「ゼーション化」って変かな?)は「異常」なほど急激である と感じていた。しかしそれは外からのものを受け入れるということだけはなく、もともと日本社会にある「成功マニュアル」方式という内発的な行動様式と呼応 した結果であると考えるならば、「異常」とも見える怒濤のような日本社会の「グローバリゼーション化」も理解できる。

僕は、日本がこの「成功マニュアル」方式から脱却する上で、戦争体験や平和憲法を軸に平和国家として国際社会に寄与する、参画するとい うことは、非常に大切な試金石であると考えている。何しろ「上下関係、タテ関係本位」とか、「一致団結して少数意見は無視する」とか、「成功マニュアル」 方式が拠り所とする方法はそこでは通用しない。自身の主体的な働きかけ、開かれた継続的な努力しか、そこに至る方法は無いのだ。

つまり「平和」というものは非常にテマヒマのかかるもので、「成功マニュアル」方式では割に合わないのである。

「平和」を目的とした行為は、その行為自体、「プロセス」そのものが、まずなによりも「平和」的なものであるか否かが厳しく問われる。しかしそこにこそまさに「平和」を目的とした行為の存在意義があるのだと思う。