戦後社会を支えたもの 承前

わたなべ ひろし

文芸評論家の加藤典洋さんが、哲学者の鶴見俊輔さん、作家の黒川創さんとの鼎談の中で、次のような発言をしていた。

「なぜ日本の戦後の思想がけっこう豊かだったかというと、丸山真男みたいな、 だまっていたら東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような人 間が、戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で 被爆する。そういう経験がなかったら、日本の戦後は全然違っていたと思う。」 (『 日米交換船』p70)

加藤さんのこの発言を読んだとき、僕はとても違和感を感じた。

それは主に「戦争でひょいとつままれて」の部分によっている。

このような言い方からは、加藤さん自身「けっこう豊かだった」と評価している「日本の戦後の思想」というものに対する敬意というか、尊重する気持ちが感じられないからである。

それは決して「戦争でひょいとつままれて」もたらされたようなものではなかった。

ここに出てくる「丸山真男」とは、日本政治思想史家で、東京大学法学部の教授を1950年から71年まで勤めた丸山眞男さんのことである。今年2006年は、丸山さんが亡くなって10年目に当たる。その丸山さんについて、先日、苅部直『丸山眞男−リベラリストの肖像』を読んだ。苅部さんは、丸山さんが生きた時代状況と丸山さん自身の学問、思想の関連性を、具体的、評伝風に描いており、僕などにはとても読みやすかった。その苅部さんの本から、加藤さんの言う「戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」部分を引用してみる。(なお引用は少し要約してあります。)

「(召集時、丸山は)すでに三十歳、陸軍二等兵としての教育召集であった。東京帝大の教授・助教授が徴兵されることは珍しく、まして二等兵の例はほかにない。おそらくは思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰であった。大学卒業者には、召集後でも幹部候補生に志願すれば、将校になる道が開かれていたが、『軍隊に加わったのは自己の意思ではないことを明らかにしたい』と、あえてそれを選ばず、丸山は二等兵のまま、所属部隊ごと朝鮮の平壌へ送られた。」(p107−108)

「(丸山は、朝鮮で病気になり東京に戻った4ヵ月後の)1945年3月、再び召集を受ける。配属されたのは、広島市の陸軍船舶司令部である。やはり二等兵であった。そして8月6日の朝、(丸山のいた)司令部から5キロメートルの地点に、最初の原子爆弾が投下された。まもなく、火傷やガラスで重症を負い、助けを求めにやってきた市民たちの群れで、司令部の広場はいっぱいになる。」(p111−112)

苅田さんによれば、丸山さんが自身の被爆体験を公に語ったのは、終戦から20年後の講演においてであった。そして「広島市民に比べれば自分は傍観者にすぎないという思いから、被爆者手帳の交付を申請することはなかった」という。

このような丸山さんの戦争体験や被爆体験を読むと、極めて不本意で理不尽な境遇に陥りながらも、そこに自分の意志というものを介在させようとする人間の強さを感じる(もっとも苅部さんの書き方が上手いということもあるのだろうけれど)。

こういったものこそ「主体性」というのであろう。

加藤さんが述べているように、僕も「日本の戦後の思想」は豊かなものであったと思う。しかしその豊かさは、「ひょいとつままれて」放り込まれた環境の中で、結果として獲得したというような、受動的で消極的なものなどでは決してなかったのである。

例えば丸山さんなら、「ひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」ようなことが無かったとしても、きっと「東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような」人では無かったと思う。他の環境の下でも、そこで「主体的」に働きかけ、「日本の戦後の思想」を豊かなものにするような仕事をしていたに違いない。

そしてそのようなことは、丸山さんひとりに限ったことではなかった。こういう人たちが、「日本の戦後の思想」の裾野を形成していた。そして僕自身、その恩恵を有形無形にこうむってきたとしみじみ感じる。

それではその上で、自分は何をすればよいのだろうか。僕自身の課題がここから始まる。