エッセイ 66 差別について

木村 英亮

日本には厳しい差別によって屈従を強いられてきた「部落民」の問題があった。長野県のある村で750戸中10戸の部落民が集団でいきなり村長の家の座敷に座り込んで度肝を抜き、部落民を青年団に入れろ、祭りの役を割り当てろと要求した。「もし村長が警察を入れたりしてもつれたときには村長を殺す。そういう覚悟で、仲間が夜陰に紛れて庭木の植え込みに肉切り包丁やマサカリをもって隠れ、いざとなったら乱入する構えであった」(宮崎学『近代の奈落』、幻冬舎アウトロー文庫、2005,317ページ)。要求を実現したのは、命がけの団結であり、積年の憤怒であった。

差別は貧困以上に人を苦しめ怒らせる。階級的抑圧が民族的差別と結びついたとき、人々を立ち上がらせる。キューバについて調べていて、革命後黒人とムラート(黒人とスペイン人との混血)の比率が急増し、いま6割以上になっていることを知った。キューバは民族的平等を実現したのであるが、アメリカでは依然として強い黒人差別がある。ここにキューバのアメリカに対する抵抗のひとつの背景をみた。これは、黒人に限らず、いま国内の民族的差別を解決できない欧米がラテンアメリカ、中東、アフリカで孤立しつつある背景である。「南北問題」は、欧米人が民族的差別を改めない限り、金や武力だけでは解決できない。

沖縄における米軍再編に伴う、日本政府と米軍の対応の背景にもこの問題がある。沖縄への基地の集中をそのままにしたまま、他の都市の近くに基地を移転するという政策そのものが差別であり、その実現方法がまた差別である。地域振興策で納得させることはできない。差別はものでは償えない。さらに、移転費3兆円を日本に負担させるというのは、たんなる金の問題でなく日本国民全体に対する侮辱であろう。

アメリカはテロ対策のためにムスリムに対する扱いを厳しくしているが、これは破滅への道である。