ヒジュラの意味 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (5)

岩木 秀樹

メッカでの軋轢が激しくなり、622年にムハンマドらはヤスリブの町に移住した。これがヒジュラである。ヤスリブの名はムハンマドにちなんで「預言者の町」、「メディーナ・アンナビー」略して「メディーナ」と呼ばれることになる。当時のヤスリブは抗争が多く、抗争の調停者、和平と統一をもたらす指導者を必要としていた。したがってムハンマドはメッカから単に逃れたのではなく、ヤスリブからは調停者、預言者として迎えられたのであった。

このようにヒジュラにより、メッカにおける不安定で他律的なムスリム集団が、イスラーム的理想に従う自立的な共同体へと変わる契機となった。ユダヤ教における出エジプト、キリスト教におけるイエスの誕生にも比すべき人類史的意味を持つのである。ムハンマドの生誕の年や啓示が最初に下された年ではなく、このヒジュラの年が後にイスラーム暦の起点とされたことは、そのことを象徴している。(中村 1977)

ヤスリブの住民がよそ者であるムハンマドを自分たちの指導者として迎えた理由はいくつか考えられる。宗教的には、彼らも多神教徒であったが、カーバ神殿を擁するメッカと違い、父祖の宗教に固執することにそれほど大きな利害が絡んでいたわけではなかった。またヤスリブにはユダヤ教徒も多く存在し、彼らを通して一神教に親しんでいたことも大きい。さらには社会的問題を抱え、2つの部族連合が紛争を繰り返しており、それをやめさせてくれる人物や契機を探していたのである。他方、ヤスリブのユダヤ教徒もアラブ人の預言者ということで、ムハンマドに期待をしており、自分たちを助けてくれるとの期待も当初はあったようである。(小杉 2009:20)

しかし、ムハンマドを受け入れることはメリットばかりでなく、メッカとの対立というリスクもあった。ただ対立は単なる負の要因ではなく、むしろ対立を望んでいた側面もある。メッカの隊商を積極的に攻撃することにより、生活の糧を得られるばかりでなく、メッカとの対立を鮮明にするという戦略的意義もあったのである。(小杉 2002:93,107)

ムハンマドの一生は、前半13年間のメッカ期と、後半10年間のメディーナ期に分けられる。メッカ期は、いわば平和的布教期であり、メッカを支配するクライシュ族がイスラーム勢力を圧迫し続けた結果、ムハンマドと彼に従う者たちはヒジュラを行って、メディーナに移住した。これによって、メディーナにおいてウンマ(イスラーム共同体)と国家が成立し、メッカとの武力的対立の時代に入った。(小杉 2011:120)

624年3月にメディーナの南西部の紅海沿岸に近い水場バドルで、バドルの戦いが行われた。この戦いでイスラーム軍は倍する数の600名ほどの敵軍に大勝して、多くの戦利品及び捕虜の莫大な身代金を獲得した。そのような経済的意義にも増して勝利の宗教的・政治的意義は大きかった。この勝利はムスリムに神の加護を確信させることになり、またこれによってムハンマドとウンマのメディーナでの地位・威信は飛躍的に高まった。メディーナに来襲したクライシュ族を625年4月のウフド戦いで、ついで627年4・5月のハンダク(塹壕)の戦いで撃破したムハンマドは、これらの戦いの過程で、敵対していたメディーナのユダヤ教も掃討していった。ウンマの優勢を確信したムハンマドは、メッカ巡礼のため、628年3月に千数百名とともにメッカに向けて進んだ。これを阻止しようとしたメッカ軍との間にブダイビアの盟約と言われる和平が成立した。その後この盟約は破棄され、630年1月ムハンマドらはメッカに軍を進め、メッカをほとんど無血のまま征服した。(佐藤他 2002:138-139)