危機の時代 – ムハンマドの生涯とイスラームの成立 (4)

岩木 秀樹

既存の社会との思想的・社会的対立が深刻になった頃、ムハンマドにとって大きな危機の時代を迎えた。それは619年には妻ハディージャ、その後間もなくの伯父アブー・ターリブの死であった。最初のイスラーム教徒であり夫の良き理解者で励まし役でもあったハディージャの死は、ムハンマドの宗教者としての生活に精神的打撃を与えた。ハーシム家の家長でもありムハンマドを庇護してきたアブー・ターリブの死は、政治的打撃であった。

このような困難な時期にムハンマドは夜の旅と昇天の旅を経験する。それはムハンマドとイスラームにとって大きな転機を迎える622年のヒジュラ(聖遷)のおよそ一年前であったとされる。夜の旅とは、一夜のうちにムハンマドがメッカからエルサレムへ往復したことであり、昇天の旅とは、その時エルサレムにおいて、かつてのソロモンの神殿から七層の天に昇り、諸預言者たちに出会い、ついにはアラーの御許に達するというものである。

昇天の旅の物語は諸預言者の系譜の物語であり、ムハンマドがこれらの預言者たちの系譜を引き彼らと同族であることと、彼らがアラーから命じられたのと同じ使命をムハンマドがはたしているということを、確認しているのであろう。これはイスラームが新奇な教えではなく、人類の祖先アダム、アブラハムらから連綿と続く一神教の系譜に位置するとの主張であろう。

イスラームは秘蹟やミラクルの少ない比較的合理的な宗教だと言われているが、この夜の旅と昇天の旅は、やや神秘的なものであろう。これが肉体を伴う現実的な体験であったのか、魂の飛翔による旅であったのかについては、ムスリムの学者の間でも見解が分かれている。ただ宗教体験においては即物的な実体験であるか、精神的な体験であるかはそれほど問題ではない。ここで重要なことは、深刻な危機の時代にこの旅を体験したということである。この体験によって、啓示に基づく一神教としてのイスラームが系譜的に位置づけられ、ムハンマドは世界宗教の確立者としての自らの役割を新たな次元で確認したのであろう。(小杉a 2002:77,80-81,85)