加藤寛さんのこと、中嶋嶺雄さんのこと

中西 治

加藤寛さんが2013年1月30日に亡くなり、中嶋嶺雄さんが同年2月14日に亡くなった。
加藤さんは1926(昭和元)年4月3日に岩手県で生まれ、86歳、中嶋さんは1936(昭和11)年5月11日に長野県で生まれ、76歳であった。

私が中嶋嶺雄さんと初めて会ったのは1960年代半ばであった。彼は1960年に東京外国語大学中国科を卒業後、世界経済研究所に勤務し、現代思想研究会の活動に参加していた。彼が東京大学大学院社会学研究科国際関係論専門課程修士課程に入学してきたとき、彼はすでに学生運動を経験した新進の若手論客として知られていた。指導教官は私と同じ江口朴郎教授であった。

私は彼の著書『現代中国論』を読み、「才のある、できる人」であると思っていたが、互いに忙しくしていたのでゼミで顔を合わせることはほとんどなかった。彼との付き合いが深まったのは、彼が勤める東京外国語大学で私が非常勤講師として「歴史」を教え、研究会をともにするようになってからである。私は彼の主著『中ソ対立と現代』の書評を『日本経済新聞』に書いている。

中嶋さんは戦後、幼少時からバイオリンを習っていた。彼が学長を務めていたときに東京外国語大学はキャンパスを都心から府中に移した。彼はこの移転式典で式辞を読み、バイオリンを演奏した。私はこの式典に参加し、彼の晴れ姿を見、祝いの言葉をおくった。これが彼と話し合った最後であった。その後、彼は秋田に新設された国際教養大学の学長として大活躍した。

私が加藤寛さんと初めて会ったのは1970年代初めであった。彼が主催するエネルギー問題研究会に参加した。この研究会の目的は日本政府に対していかなるエネルギー政策を採るべきであるのかを提言することであった。私の役割はソ連のエネルギー資源を調査し、これに日本がどのように対応するのかを考えることであった。

この研究会が終わった後、二度にわたるオイル・ショックが起こった。このとき加藤さんはオイル・ショックにより石油や天然ガスの値段が騰がったので日本で原子力発電所を建設するのが容易になったと語っていた。原発建設は高くつくというのが原発建設推進のネックの一つになっていたからである。私は加藤さんを原発建設推進論者であると考えていた。ところが、彼が亡くなった後、彼が晩年に原発廃止を主張していたことを知った。

「君子は豹変する」という。「君子は悪いと知れば、すぐに改める」という意味である。加藤さんの原発廃止論は「君子の豹変」であったのか、それとも、もともと廃止論者であったのだろうか。

加藤さんと中嶋さんに共通するのは強烈な現状改革志向である。加藤さんは日本資本主義の危機を感じ、国鉄の分割民営化や郵政民営化などを推進した。中嶋さんも学生時代から大学学長時代に至るまで一貫して大学の改革に努力した。これらの改革をどのように評価するのか。それは今後の問題である。

加藤寛さんも、中嶋嶺雄さんも、働きすぎるほど働き、成功した人であった。 幸せな生涯であった。

彼らはともに情の通ずる人であった。

2013年2月21日