辛亥革命100年記念日にあたって

中西 治

100年前の1911年10月10日に中国湖北省の長江(揚子江)に面する武昌で清朝の支配に反対する蜂起が起こりました。「武昌起義」です。この地域は長江を挟んで武昌、漢口、漢陽の3鎮から成っていましたが、漢口と漢陽はさらに長江に注ぐ夏水(後に漢水と改称)によって分かたれていたため、3鎮間の交通は不便でした。3鎮が一つの武漢市に統合されたのは1927年のことです。

漢口には、清国が1858年の天津条約によって開国するさいに認めた、英・露・仏・独・日本の5か国の租界がありました。

当時、中国を支配していた清帝国は満州人が統治する国家でした。この満州人の支配から脱し、漢人による国家を作ろうとする「滅満興漢」の動きは19世紀末からありました。その指導者の一人に孫文(1866年〜1925年)がいました。号は中山、字は逸仙でした。

彼は1894年に興中会を結成し、1895年に「広州起義」を起こしましたが、失敗し、日本に亡命しました。「武昌起義」が起こったとき、孫文は米国にいました。

孫文は1911年12月に急遽、上海に戻り、1912年1月1日、彼を臨時大総統とする中華民国を南京に設立しました。同年2月12日、宣統帝溥儀が退位し、1616年以来およそ300年続いた清朝は滅亡しました。

辛亥革命は成功しました。君主制は廃止され、アジアで最初の共和国が発足しました。

孫文は溥儀の退位と引き替えに、臨時大総統の地位を清朝の実力者袁世凱に譲りましたが、その後、袁世凱と対立し、再び日本へ亡命することになりました。この亡命中に孫文は日本人梅屋庄吉夫妻から物心両面の援助を受けていたと言われています。

辛亥革命以後の中国の歴史と日中関係の歴史は戦争と平和が交錯しています。

中国では軍閥が地方に割拠し、互いに抗争していました。孫文が日本の東京で作った中華革命党は1919年に中国国民党と改称し、1924年に中国共産党と「第一次国共合作」をしましたが、これは、1927年の蒋介石の反共クーデターによって崩壊しました。毛沢東は江西省の井岡山に革命根拠地を樹立しました。国共内戦が始まりました。

日本は1929年の世界的な経済恐慌から抜け出るため、1931年に「9.18(満州)事変」を起こし、中国東北への侵略を開始しました。1937年には中国本部へと侵略を拡大しました。同年、「第二次国共合作」が成りましたが、1945年、抗日戦争に勝利した後、再び内戦が始まりました。1949年に中国共産党が勝利し、中華人民共和国が成立しました。蒋介石は台湾に逃れました。

2011年9月10日ー11日に武漢大学日本研究センターで、台湾中正基金会の協賛を得て、9.18事変80周年を記念する国際シンポジウム「9.18事変と中日関係」が開催されました。私たちの研究所はこのシンポジウムに研究所設立10周年記念行事の一環として6名を派遣しました。シンポジウムには台湾中正基金会社長・中国文化大学日本研究所所長の陳鵬仁教授も参加され、積極的に発言されました。

シンポジウムには中国本土からだけではなく、台湾からも、日本からも多くの研究者が参加して真摯な討論をおこない、日中関係史上画期的な催しとなりました。私は席上、このシンポジウムの歴史的意義を強調し、この催しを今後100年間の「新しい平和な日中関係を作り出す出発点」とするように呼びかけました。

私たちの研究所は本年12月18日にもう一つの設立10周年記念行事を横浜でおこないます。

この催しには次の5名の賓客を中国の上海と武漢からお迎えします。

上海:
研究所顧問・王邦佐教授(元復旦大学国際政治学部部長・上海師範大学学長)
方幼封教授(王邦佐教授夫人・元復旦大学国際政治学部教授・ラテンアメリカ研究者)
謝岳教授(同済大学政治学・国際関係学院教授)

武漢:
研究所顧問・胡徳坤教授(武漢大学国際問題研究院院長・元同大学副学長・歴史学部長)
沈(瀋)亜楠さん(武漢大学大学院生・通訳)

私はこの催しを日中関係史上に特記される出来事にしたいと願っています。

日中間の平和と友好、繁栄と幸福、文化学術交流の発展と拡大のためにともに努力しましょう!