5. メドヴェージェフ・プーチンの「双頭」の中間的評価 : 「双頭」のロシア -2008年〜2011年- : 現代ロシア社会論 (2)

中西 治

メドヴェージェフ大統領、運の悪い人

メドヴェージェフが2008年春に大統領に就任してからまだ3年余しか経っていない。4年の任期が終わっていない。そこで、ここではその中間的な評価をする。

メドヴェージェフの大統領在任1年目はきわめて重苦しい1年であった。就任早々にザカフカスで武力を行使し、重大な決定を迫られた。石油・天然ガスなどのエネルギー資源の世界価格が急激に低下し、ロシアの国家予算の根底を破壊した。ロシアは全地球的な世界危機の中に引きずり込まれ、ロシア人の生活の質に痛みを伴う打撃が与えられた。

国内総生産(GDP)は、メドヴェージェフが大統領になった2008年に41兆2649億ルーブルであったのが、2009年には38兆7972億ルーブルに減少し、2010年には44兆4914億ルーブルに回復した。しかし、これは名目GDPについてであり、実質GDPでは2008年と比して、2009年は38兆0462億4000万ルーブル、2010年は39兆5511億3000万ルーブルであった。メドヴェージェフ大統領のもと、2009年から2010年にかけてロシアではインフレーション(物価の高騰)が続き、国民経済は低下した。

プーチン大統領の時期には2000年から2007年までの8年間、名目GDPだけではなく、実質GDPも一貫して増大していた。29

プーチンは運の良い人、メドヴェージェフは運の悪い人であった。

メドヴェージェフ大統領、アブハジアと南オセチアの「独立」を承認

ソヴェト時代、グルジア共和国の中にはアブハジアとアジャールの二つの自治共和国の他に、南オセチア自治州があった。これらはいずれも一定の自治権を持っていた。南オセチア自治州は1990年にロシア連邦共和国に属する北オセチア自治共和国との合併をめざして、グルジアからロシアへの帰属変更を宣言した。モスクワのソヴェト同盟政府がこれを認めなかっただけでなく、グルジア政府も南オセチアから自治州の資格を取り上げた。

1990年代初めからソヴェト同盟を構成していたバルト3国をはじめとする国々が独立を宣言するようになった。1991年4月にグルジアも独立を宣言し、公用語をグルジア語だけにしようとした。これに反対し、南オセチアが独立を宣言した。グルジアと南オセチアの間で戦争が起こった。その間にソヴェト同盟、そのものがなくなった。1992年には停戦が実現した。

アブハジアも1992年7月に独立を宣言した。グルジアとアブハジアの間で戦争が起こったが、これも1994年5月に停戦となった。

ところが、メドヴェージェフが大統領に就任してまだ3か月しか経っていない2008年8月8日にグルジア軍が突然、南オセチアに進攻した。不意をつかれたロシアもこれに対してロシア人保護のためと称して急遽、軍隊を南オセチアに派遣し、グルジア軍を追い出した。「5日戦争」である。アブハジアでもロシア軍とアブハジア軍が協力してグルジア軍をコドリ渓谷から追い出した。同月26日、メドヴェージェフ大統領は南オセチアとアブハジアの「独立」を承認した。これはメドヴェージェフが予定していた行動ではなかった。

実は、メドヴェージェフは「5日戦争」終結後、南オセチアとアブハジアの二人の大統領を招き、他の国にも開かれた「コンフェデラーツィヤ(連合)」を作るように提案した。これならロシアも承認できると考えたからである。ところが、二人の客人は、両国の間には共通の国境さえないと主張して、この提案に恐ろしいほどの剣幕で強硬に反対した。クレムリンはパニックに陥った。このために誰かの頭にアブハジアと南オセチアの承認というアイデアが生まれたのであった。30

メドヴェージェフ大統領、政治制度改革を提案

2008年11月5日、メドヴェージェフは大統領就任後最初の2008年度年次教書を発表し、グルジアとの戦争について次のように述べた。

「カフカスにおける紛争は北大西洋条約機構(NATO)の軍艦を黒海に導入するための口実として利用された。米国の対ロケット・システムをヨーロッパに早く押しつけるためにも利用された。もちろん、ロシアの側からの対抗措置を引き出している。かくして、トビリシ体制の地域的な冒険は国境を遠く離れた地域、全ヨーロッパ、全世界の緊張の増大になっている。国際的な安全保障制度の有効性に疑義をもたらしている。地球秩序の基盤が事実上不安定になった。」

メドヴェージェフはこの問題に深入りしなかった。

この教書の主要な目的はロシアの政治制度の改革であった。メドヴェージェフはこれについて以下のように具体的に提案した。

第一は、次回選挙から大統領の任期を4年から6年に延長し、国家会議(下院)の任期を4年から5年に延ばすこと。

第二は、これまで国家会議選挙では得票率が7%を超える政党にのみ議員が割り当てられたが、今後は得票率5−7%の政党にも1−2議席を与えること。

第三は、これまで連邦構成主体(共和国、辺区、州、連邦的意義を有する市、自治州、自治管区など)の首長候補者の大統領への推薦は当該連邦構成主体を管轄する連邦管区大統領代表と当該連邦構成主体議会の第1党がおこなうことができたが、今後は後者のみがおこなえること。もちろん、これによって自動的に連邦構成主体の首長が決まるということではなく、これまでと同様に、当該連邦構成主体議会が審議、承認し、任命される。

第四は、あらゆるレベルの選挙における供託金を廃止すること。また、国家会議選挙への参加のために必要とされる選挙人の署名の数を段階的に削減すること。次回の国家会議選挙において得票率5%以上の政党、あるいは、三分の一以上の地方議会で会派を形成している政党は、署名集めを完全に免除されること。

第五は、連邦会議(上院)は連邦構成主体議会議員および地方自治体(連邦構成主体よりも下位の市町村の行政機関)議会議員によってのみ編成されること。一定期間の居住を義務づける居住要件を廃止すること。これまで連邦議会は直接選挙(各連邦構成主体を定数2の選挙区とし、連記投票により議員を選出)、または、各連邦構成主体の議会議長と首長を職務上の議員とする制度、もしくは、各連邦構成主体の議会と行政機関の代表などにより構成されてきた。また、2007年7月21日からは、合計して10年以上、当該連邦構成主体に居住しなければならないことが義務づけられていた。これが「連邦構成主体議会議員および地方自治体議会議員によってのみ編成される」こととなり、再び、直接選挙によって選出する可能性が生まれてきた。

これら一連の政治制度改革は「改善」であった。「少なくとも国内政策については、プーチン政権期とは異なる方向の政策が打ち出されていることは間違い」なかった。31

メドヴェージェフ、2009年秋に大統領らしくなる

2008年の春から2009年の秋にかけての時期は、メドヴェージェフが座っている場所がクレムリンのツァーリの椅子であることを彼が自覚するための準備の期間であった。

2009年の秋にメドヴェージェフはまったく別人のようになった。外見も本物のロシア大統領らしくなった。彼はこれまでとは違ったように振る舞い、違ったように喋り、自分の考えを表現するスタイルを変えた。これまでよりもはるかに大統領的になった。

メドヴェージェフは神経質に、いらいらすることがなくなり、自信を持つようになった。大統領はかくあらねばならないというのに著しく合致するようになった。彼はプーチン政府とプーチン首相について1年前または1年半前とはまったく違う調子で語り始めた。たとえ言葉だけとは言え、もはや、何らかの違いを強調するのを遠慮しなくなった。32

大統領年次教書についても、教書を発表する前、2009年9月10日にメドヴェージェフは論文「ロシアよ、前進せよ!」を公表し、同年11月12日に2009年度大統領年次教書を朗読した。

前者の論文では冒頭で「私たちはこれからも私たちの未来のなかに初歩的な原料経済、慢性的な汚職、問題を解決するさいに、自分だけは除外して、国家、外国、何かの「全能の教義」、必要な何か、必要な誰か、など古くさい他人頼りのやり方を引きずることになるのだろうか。このような重荷を背負ったロシアに独自の明日はあるのだろうか。」と問うた。

また、後者の教書では冒頭で「私は論文で新しい政治戦略の諸原則を明らかにし、この教書でこの戦略を現実化する具体的な緊急計画とそれをもっとも早い時期に実行する方策について述べる。」と語った。33

それは自信を持った大統領の言葉であった。

他方、プーチン首相はこの同じ2009年の秋に次のように述べている。「忘れないでいただきたい。私が大変強力な首相であることを。私が多くの機能を持っていることを。私が権力のこの規模に満足を感じていることを。」34

メドヴェージェフは大統領就任1年半にして大統領らしくなり、プーチンはその段階における首相としての自己の地位に満足していた。これまでの「双頭」は名目的にはメドヴェージェフ大統領の方が上位であったが、実際にはプーチン首相の方が上位であった。ところが、これ以降、メドヴェージェフが大統領としての地位を確立しはじめ、両者の関係が変化した。やっと、両者が対等な「双頭」体制となり始めた。

こうした「双頭」体制、とくに、プーチンを激しく批判したのは共産党の下院議員イリュ−ヒンであった。

イリューヒン、「カティンの森事件」で謝罪するプーチンを批判

イリューヒンは1949年3月1日にペンザ州で生まれ、サラトフ法科大学を卒業した法律家である。イリューヒンはソヴェト同盟解体後、エリツィン大統領のもとでおこなわれた1993年12月の第1回国家会議(下院)選挙でロシア連邦共産党から立候補し、当選した議員であり、国家会議では汚職、歳出、安全保障などの委員会に属していた。彼はまず批判の矢を「カティンの森事件」について放った。

「カティンの森事件」とは、1939年9月1日にヒトラー・ドイツ軍がポーランドに進攻することによって始まったヨーロッパでの第二次大戦の初期にポーランドでソヴェト軍の捕虜になったポーランド軍将校・兵士がソヴェト・スモレンスク州グネズドヴォ近くの「山羊が丘」で遺体として発見された事件である。この地は1941年6月の独ソ戦争の勃発後すぐに、ドイツ軍によって占領されたところである。最初に遺体を発見したドイツ軍が「グネズドヴォの丘」事件と言わずに、近くにある「カティンの森」事件と言ったのは、「グネズドヴォの丘」よりも「カティンの森」の方が国際的にはるかに有名であったからである。

問題はこのポーランド軍将校・兵士を殺害したのが、ソヴェト軍なのか、ドイツ軍なのかである。独ソ戦中からドイツ軍はソヴェト軍であるとし、ソヴェト軍はドイツ軍であると主張してきた。ソヴェトは、この問題は戦後のニュルンベルグ国際軍事裁判によって決着がついている、としているが、それでもことあるごとに論争は繰り返されてきた。今回これがまた復活したのはプーチン首相が2009年にポーランドを訪問し、2010年4月7日にスモレンスクにある慰霊碑をポーランド首相とともに訪れたことによる。

なお、4月10日に現地でポーランド政府主催の追悼式典がおこなわれる予定であったが、これに参加するためにスモレンスクに向かっていたポーランド政府専用機がスモレンスク空港近くの森に墜落し、大統領夫妻をはじめ多くの関係者が亡くなったために式典は中止された。

2010年4月19日にロシア連邦・連邦議会国家会議(下院)において「カティンの悲劇:法的・政治的側面」と題する円卓会議が開催された。会議を主催したのもイリューヒンであった。この会議には殺害したのはドイツ軍だという論者とソヴェト軍だという論者合わせて16人が参加した。

冒頭、イリューヒンはプーチン首相がカティンの悲劇に関する文書も資料もよく研究しないで、すでに何度もポーランド人に対して彼らの将校を射殺したことについて謝罪したことを批判した。そして、ポーランド人将校をソヴェトが射殺したという説が成り立たないことを証明する論拠を十分に持っていると強調した。

イリューヒン、「カティンの森事件」で全体的検討が必要とメドヴェージェフを批判

2010年4月28日、ロシア連邦文書保管所はメドヴェージェフ大統領の指示を受けて一連の文書の原本を解禁・公開した。

第一は1939年にソヴェトの捕虜となったポーランド軍将校の運命に関する「特別ファイル第1号ソヴェト同盟共産党中央委員会政治局」、第二は2万5000人以上のポーランド人の銃殺を提案したかのごときベリヤの覚書とこれに賛成した党政治局の決定、第三は銃殺されたポーランド人の個人的事柄の抹殺についてのフルシチョフあてシェレーピンの覚書である。

これらの文書についてイリューヒンは国家会議の憲法的立法・国家建設委員会副議長として2010年4月29日に円卓会議参加者の委任をうけて次のような声明を発表した。

ロシア連邦文書保管所の決定にはセンセーショナルなものは何もない。解禁・公開された文書は前世紀の90年代初めにすでに多くの人の共有財産となり、ロシアと外国で一度ならず公表され、論評されていたものである。

文書公開の措置は、円卓会議参加者がいわゆるカティン事件について予備的な捜査を復活し、すべての証拠や考え方を点検する必要があること、集められた証拠類を公開の司法裁判で評価するために捜査と点検の結果を裁判所に引き渡すことを声明したあとでおこなわれた。

この立場は多くの事実と証拠に基づいている。とくに、ポーランド人がドイツの武器で銃殺されたこと、多くの犠牲者の手が、ソヴェト同盟では作られていないで、ドイツで広く使われている紙製の紐で結ばれていることに基づいている。ソヴェト国民とドイツ人の多数の証言に基づいている。そのなかには、1941年夏−秋にスモレンスクがヒトラー・ドイツ軍によって占領されたあと、彼らがポーランド人を銃殺したというドイツ国防軍兵士の証言も含まれている。

捕虜の将校がソヴェト同盟内務人民委員部によって銃殺されたとの多年にわたりロシアと外国で強引に押しつけられた嘘は今日では粉々に砕けている。しかし、前世紀の80年代末−90年代初めにいわゆるカティン事件を急回転させたロシアの権力とわが国の歴史家たちがこの粉々に砕けたものを寄せ集めようとしている。

2010年4月28日にメドヴェージェフ大統領はデンマークで、特別ファイル第一号が解禁された後、誰でもがこれらの文書に接することができ、誰がそれに署名したのか、ポーランド将校の絶滅について具体的にどの人物に罪があるのかの結論を引き出すことができると声明したが、これに同意することはできない。いかなる文書もそこには一定の情報を含んでいるが、その信憑性もしくは非信憑性について結論を出せるのは、他の証拠と合わせて全体的に研究した後でだけである。35

こうしてイリューヒンの批判はプーチン首相だけではなく、メドヴェージェフ大統領にも及んだ。

2010年度大統領年次教書、経済の現代化を提唱

2010年11月30日、メドヴェージェフ大統領は2010年度大統領年次教書を発表した。彼は最初に2009年度の教書に触れ、次のように述べた。

「1年前にこのホールで私は、私たちの政治戦略を提起した。それは、民主主義の価値に依拠しながら、経済を現代化し、あらゆる分野での進歩のために刺激を作り出し、自由で、教養ある、創造的に考える市民の世代を養成し、人々の生活の基準を質的に新しい水準に高め、技術革新を基礎に成功を勝ち取った現代的な世界的大国としてロシアの地位を確立することである。

私たちの国における現代化は、全世界にとってただならぬ時、全地球的危機の時に始まった。それでも今年、2010年の経済成長はおよそ4%になるであろう。向こう3年間の課題は物価の上昇を年間4−5%以下に抑えることである。失業者数は現在およそ500万人であるが、危機のピークに比べると、200万人減っている。今日、ロシアが持っている国際通貨基金は0.5兆ドルであり、2008年末より多い。この数か月間、住民の実質所得はおよそ5%増えている。

現代化は自己目的ではない。これは道具にしか過ぎない。これを使って、経済と社会の分野で久しい間、熟み溜まっている諸問題を解決することができるし、これをなによりも必要として人々を助けることができるし、私たちが大変期待している人々、つまり、私たちの子供たち、私たちの若者の能力を開花させるために条件を作り出すことができる。」

メドヴェージェフは続いて人口問題を取り上げ、ロシアにおける出生率が2005年に比べて21%以上増大し、幼児の死亡率が4分の1低下し、この15年間で初めて2009年にロシアの人口が増大に転じたことを報告した。しかし、これから先、15年間は1990年代の人口減の影響を受け、いわゆる生殖可能年齢の女性が激減することを警告し、これはわが民族全体のとって深刻な脅威であると述べた。そして、その重要な対策の一つとして、一家が3人以上の子供を持つことを提唱した。ネクラーソフ、チェホフ、ガガーリン、アンナ・アフマートワはいずれも3人目の子供であった。

メドヴェージェフ大統領は最後に、国の安全保障と防衛の問題に触れ、現在の6軍管区を4軍管区にすること、対空対宇宙防衛を強化することを明らかにした。さらに、メドヴェージェフはドイツ、フランス、中国、インド、ブラジル、韓国、シンガポール、日本、カナダ、イタリア、フィンランド、ウクライナ、カザフスタンなどとの技術協力とヨーロッパ連合および米国との協力の拡大およびロシアの世界貿易機構への参加にも言及した。

メドヴェージェフ大統領の教書演説は現代化を軸に内外政策全般に及んだ。36

プーチンに対する軍事裁判とイリューヒンの不慮の死

イリューヒンの第二の矢は、2011年2月10日に全ロシア将校会議の決定によりモスクワで開かれた軍事裁判で放たれた。被告人は前ロシア連邦大統領・前ロシア軍最高総司令官・現首相プーチンであった。罪状はプーチンがロシアの防衛力と安全保障について、また、陸海軍と軍産複合体の崩壊について、法律に反する破壊活動をしたというのであった。

法廷で主任検事の役を務めたのは法務中将ヴィクトル・イリューヒンであった。彼は法廷でプーチンの罪状を告発する論告を展開した。

軍事裁判所は国の防衛確保の分野におけるプーチンの活動が国益に合致しないものと認め、プーチンがこれからも国家の役職に就いていることは不可能であると判定した。さらに、プーチンの活動はロシア連邦の検察機関によって綿密に調査され、司法の評価をうけるべきものとされた。軍事裁判の判決内容はロシア連邦の現在の大統領、陸海軍人および全国民に伝達されることになった。37

この軍事裁判は国家の正式な機関がおこなったものではなく、ロシア連邦内の将校会議という任意団体がおこなったものであり、プーチン首相は逮捕・拘束されることはなく、法廷にも出席しなかったが、ロシアの軍人、とくに、将校の一部が公然とプーチンを批判したことは、プーチンにとっては好ましいことではなかった。

問題は裁判の終結で終わらなかった。イリューヒンはこの裁判での論告の後、突然、不慮の死を遂げた。この死は予期されないものではなかった。イリューヒンは「あなたは制度と闘っている。それは残酷である。プーチンは何でもできる。あなたは暗殺されたレフ・ローフリン将軍の運命を繰り返すのか」と忠告されていた。イリューヒンはそれに対して次のように答えていた。

「私たちはレフ・ローフリンと戦友である。私たちは自分の道を一度、そして、永遠に選んだ。危険は承知している。祖国に奉仕し、祖国を擁護しなければならないのだ…」。38

それは覚悟の死であった。

プーチンに影響を与えたのはサプチャクとエリツィン

イリューヒンが言いたかったことは、彼の死後2011年春に出版された著書『プーチン。知らない方が良い真実』で詳細に語られている。彼はこの本の中でプーチンを次のように厳しく批判している。

エリツィンの統治時代は終わったが、ロシアにとって破壊的なエリツィンの改革時代は続いている。国家権力、経済、社会領域の多くの重要ポストにエリツィン改革を推進しているイデオロギーと人々が残っている。このことはプーチンを完全に満足させている。

政党「統一ロシア」はロシアにとって伝統的な右翼、ガイダールやチュバイスよりもさらに右にある。プーチンが中央のどこか、すべての人の上にあるという考えは間違っている。プーチンは彼を押しだし、権力の座に就けた人々のあいだ、エリツィン・サークルの中にかつていたごとく、いまもそこにいる。一部の右翼の人々がプーチンを批判しているが、これは同じ仲間内のグループ間利益の衝突として、プーチンをエリツィンの軌道に沿ってより早く、決定的に歩ませたいとする志向として評価しなければならない。

「統一ロシア」の議員たちが農業用地に対する私的所有権の導入、自然に形成されている独占を分割し、農業用地を人々の大きくない小グループの手に引き渡すこと、および、自己の政治的反対派の弾圧を強く要求していることなどの例によって、このことはとくに明らかである。

権力に入った後、プーチンは権力を効果的に、確実に運用する準備ができていないことが分かった。ドイツでの諜報活動の後、プーチンは人々と国家機構を管理するために必要な経験を積まなかった。しかし、このことだけで、プーチンの政治的決定を説明するのは正しくない。むしろ、それはプーチンがサプチャクとエリツィンのチームに相当の期間いたことに規定されている。プーチンの考えと信念は多く、サプチャクとエリツィンの影響のもと、飽くなき金銭欲と嘘と策謀の忌まわしい精神の雰囲気の中で形成された。39

私もプーチンがKGBだけでなく、サプチャクのもとと大統領府で仕事をしたことは「重要な意味を持っている」と考えているが、それが政治家プーチンに良い影響を与えることを期待していた。40

メドヴェージェフ大統領、2012−2014年度予算教書を発表

2011年6月29日、メドヴェージェフ大統領は次のような内容の2012−2014年度予算教書を発表した。

この予算教書によると、2010年の経済成長率はほぼ4%の水準で安定し、2011年もほぼ同じ成長率もしくはそれよりも少し上が期待されるという。連邦予算の赤字が本質的に削減されたが、最も主要なことは、国家がすべての社会的責務を果たすことである。

私たちの予算政策の主要な課題は、私たちの国の現代化、私たちの経済の現代化であり、経済競争力の向上と長期的な安定した発展の条件を作り出すことである。

しかし、今日、予算・租税政策のすべての要素が完全にこの課題に応えているわけではない。対外経済景気への依存と結びついたリスクは依然として維持されている。私たちの向こう3か年の予算は新しい経済発展モデルを創出するのに寄与し、リスクを下げ、マクロ経済の安定を確保しなければならない。

このためにメドヴェージェフ大統領は12項目の体系的な措置を講じなければならないと指摘しているが、そのうち主なものは次の通りである。

第一は、予算計画を国の長期的な発展戦略の形成と実現の過程に統合しなければならない。2012年までに長期経済見通しを確定し、社会経済発展の戦略的目標をその財政的保証および法的規定に基づく保証と一致させなければならない。2012年末までに「執行権力機関の活動を組織する特別原則」プログラムを導入しなければならない。

第二は、2015年から石油ガス収入利用規則と連邦予算赤字規制を実施しなければならない。これは私たちの国際的約束と完全に合致するものである。2012年および2013・2014計画年度にこれらの規則および規制を作成するさいに、この規則を実施するための前提条件および連邦予算赤字の安定とそれをさらに減らすための前提条件を作り出さなければならない。もしも、予算要求を作成するさいにこれまでの惰性を克服できなければ、マクロ経済的安定にとってのリスクは受け入れ難いほど高くなるであろう。

第三は、2012−2013年において義務的保険料の最大課税率を34%から30%に減らすこと、生産・社会分野の小ビジネスおよび広範な非商業組織では26%から20%に減らすこと。

第四は、ロシアの租税制度を経済のグローバリゼーションの条件のもとでの現在の要求に応えるうるものにしなければならない。それは、もちろん、連邦国家としてのロシアの発展に寄与するものでなければならないが、社会にとって余りにも手数のかかる厄介なものであってはならない。石油ガス部門やアルコール・たばこ工業のような企業から税を徴収するさいには、税の刺激的役割と財政的役割を高めるようにしなければならない。同時に、動産に対する現行税を不動産に対する特別税によって変えるということも要求されている。

第五は、予算政策は私たちの市民、個々の人間の生活条件の改善に向けられたものでなければならない。2012年以降、年金と補助金は当然増額されるが、2012年には平均年金額が11%以上、社会補助金が6%以上増える。すでに約束されている大祖国戦争(第二次大戦)復員者への住宅保障の問題は2012年までに完全に解決される。

メドヴェージェフ大統領の予算教書は年ごとに具体的になり、はっきりと政府に指示を与えるものになった。41
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28 中西治『ロシア革命・中国革命・9.11――宇宙地球史の中の20−21世紀――』南窓社、2011年、192ページ参照。
29 http://ecodb.net/country/RU/imf gdp.hyml 「ロシアのGDPの推移」2011/07/08。
このIMFの調査資料とロシア連邦国家統計局の資料には数値に若干の相違がある。
30 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』185−187ページ。
31 http://www.kremlin.ru/transcripts/1968 2011/07/21;上野俊彦「メドヴェージェフ大統領の政治改革 2008年度教書演説における政治改革提案をめぐって」『国際問題』2009年4月 No.580、日本国際問題研究所、4−15ページ参照。
32 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』187−188ページ。
33 http://www.news.kremlin.ru/transcripts/5413 2011/07/21 ; http://www.kremlin.ru/transcripts/5979 2011/07/21
34 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』131ページ。
35 ヴィクトル・イリューヒン『プーチン。知らない方がよい真実』ALGORITM社、モスクワ、2011年(ロシア語)、234−237ページ。http://ja.wikipedia.org/wiki/「カティンの森事件」2011/07/17。
36 http://www.news.kremlin.ru/transcripts/9637 2011/07/21
37 前掲、イリューヒン『プーチン。知らない方がよい真実』100、118−119ページ。
38 同上書の裏表紙参照。
39 同上書、6−8ページ。
40 前掲、中西治『現代人間国際関係史』474ページ。
41 http://www.kremlin.ru/transcripts/11784 2011/07/21