4. 「タンデム(双頭)」体制とは : 「双頭」のロシア -2008年〜2011年- : 現代ロシア社会論 (2)

中西 治

プーチン、「2020年までのロシアの発展戦略」で演説

2008年2月8日、プーチン大統領はクレムリンの国家会議(下院)拡大会議で「2020年までのロシアの発展戦略」と題して演説した。ここで彼は大統領在職中の2000年から2007年までの8年間を振り返り、2020年までのロシアを展望し、次のように述べた。

人々の意志と人々のロシアの運命への直接の参加こそが、この8年間になされたことすべてを達成できた決定的な力であった。私たちが主要な指導原則としてきたのは、ロシアの復興は人々を犠牲とし、人々の生活条件をいっそう悪化させるような代価を払っておこなわないということであった。ロシアは強い国家として、自分の足で立てる国家として世界舞台に戻った。いま私たちが直面している課題は、蓄積された経験と資源を次の、質的に異なる、国の発展段階のために効果的に利用することである。

ロシアの未来と私たちの成功がかかっているのは、人々の教育と健康、自己の習性と才能を自己完成し、利用しようとする人々の志向である。ロシアは人間が一生においてキャリアを増やし、社会的・物質的ステータスを著しく高めるための可能性でもっと良くなければならない。才能と成功を刺激するうえでもっと良くなければならない。私たちの経済の効率を急激に高める課題を解決するさいに、私たちはあらゆる方向に動けるように刺激と条件を作り出さなくてはならない。

国家統治の質の改善を!

提起されている目標を実現するためには、国家統治に対するまったく新しい要求が必要である。このような巨大な国家セクターが国家にとって手に負えなくなり、何の役にも立っていないことは明かである。多数の施設および組織は市場に合致しなければならないし、それが存在している事実に対してではなく、結果に対して支払いをうけなければならない。その指導者は統治の質に対して個人的責任を負わなければならない。

民主主義国家は市民社会の自己組織化の効果的道具とならなければならない。私たちの民族問題を解決するためには、国際関係の平和的な、肯定的な工程表が私たちに必要である。もっとも重要なのは、国の発展計画がロシア社会のすべての構成機関が参加する広範な審議を経ることである。このような審議は一つの話し合いでは終わらない。結果はロシア連邦政府による2020年までの国の社会・経済発展の基本理念と上述のすべての方向にわたる具体的行動計画の採択である。

2000年から2007年までの間にGDPは72%増大した。年間7.8%の増加率を維持しながら、2009年末までにGDPの倍増を達成することができる。

今日、私たちは、生活の質を変え、国と国の経済および社会領域の質を変える、きわめて野心的な課題を提起している。ロシアには勤勉な、教育ある人々がいる。ロシアには膨大な天然資源と豊かな科学的潜在力がある。提起されている目標の達成を許さない重大な理由な何一つない。私たちの国が今後も、世界のリーダーの一つとしての地位を強化し、私たちの市民が満足に生活することを、絶対的に確信している。20

メドヴェージェフ、「2020年のロシア 国の主要発展課題」で演説

2008年2月15日、メドヴェージェフ第一副首相は第5回クラスノヤールスク経済フォーラムで「2020年のロシア 国の主要発展課題」と題して演説した。

彼はまず1週間前におこなわれた2020年までの国の主要発展方向についてのプーチン大統領の演説に触れ、次のように語った。

これは、良き生活基準を提起する社会、人々の才能と能力を自立的に実現するために平等な可能性を与える社会の建設である。これは、インノヴェーション型の経済発展と経済効率の顕著な向上である。最後に、これは、広範な中産階級の形成である。このようなロシアは、市民が偉大な過去だけではなく、現在を誇りにしている国となるであろう。私たちの国は現代世界の中で生活のための良き場所である。これらの方向は野心的であり、絶対に現実的である。その実現のためには責任ある一貫した政策が必要である。その政策の中心に立っているのは、人々であり、数百万のロシア家族の未来である。

私たちの政策の基礎にある原則は、高い生活基準の達成をめざしている、すべての現代国家の活動においてもっとも重要であると考えられているものである。それは、「自由は不自由よりは良い」という人間経験の精髄である。問題は個人の自由、経済的自由、さらには、自己表現の自由など、自由が表れるすべての場における自由である。

私は自由と法秩序の間の調和の達成を所与の段階におけるもっとも重要なものと考えている。このテーマについては女帝エカチェリーナ二世が書いている。「自由はすべてのものの魂である。それなしでは、すべては死である。私は法に服従することを望む。しかし、奴隷のものではない[法]に。」

自由と市民による法権力の事実上の承認は不可分である。それが意味するものは、カオスではなく、国において採用されている秩序への尊敬である。法の至上性がもっとも重要な私たちの価値の一つでなければならない。

私は私たちの国における法的ニヒリズムの根源について一度ならず語った。これが私たちの社会の特徴としていまも残り続けている。私たちは私たちの民族的習慣から、私たちの市民がいまも日常活動において慣れている、法の侵犯を取り除かなくてはならない。それをおこなうのは、法の侵犯がある人を富ませず、他の人を堕落させないためである。法が遵守されない理由の一つは、法がまだ常に高い質にないからである。

4年間、四つの「I」(Institute、Infrastructure、Innovation、Investigation)に集中

私たちの活動においてもっとも優先権が与えられるべきことは、司法制度の執行権力と立法権力からの完全な独立性の確保である。私たちは戦闘を仕掛けなければならない。そのさい、真の戦闘は私たちの社会を冒している、もっとも重い病気−−汚職に対してである。個人所有権の尊重を国家がおこなう政策の基本の一つとしなければならない。私たちの租税制度は他の国の租税制度に対して競争力を持つようにしなければならない。私たちに必要なのは、安定した財政制度である。それは市民が蓄積したものの価値を低下させないで、企業の側からの需要を満足させるために十分な予備を持つものである。

私たちが配慮すべきことは、物質的な道だけではなく、「未来の道」、まさに、現代のテレコミュニケーションについてである。全国的なインノヴェーション・システムの構築は、私たちの経済の複雑な、枢要な課題である。未来学者トフラーが未来社会の可能性に触れたさい、警告したように、「危険は単に増大するのではなく、指数に従って増大する。このような未来は意志薄弱者にとってだけではない。」単に意志と性格だけでは十分でない。同等な可能性が必要である。

現代の経済に適応した現代の社会発展政策が必要である。医療援助を与えるすべての組織を新しく整備しなければならない。医療関係者が常に技能を高める条件を作り、新しい知識と技能を常に得たいと望む動機を高めなければならない。

私たちがこれからの4年間に集中すべきことは、基本的な方向と次の四つの独特な「I」に向けてである。Institute(研究教育機関)、Infrastructure(基本設備)、Innovation(技術革新)、Investigation(投資)である。21

プーチンの演説も、メドヴェージェフの演説も、ともに格調高いものであった。やっと、ロシア社会もここまで来たのかと感じさせるものであった。二人の演説はソヴェト時代においても、そのまま出来たであろう。しかし、ソヴェト社会はまだそれを求め、受け入れるところまで来ていなかった。1990年代初めから2000年代初めにかけての10年ほどの混乱も無駄ではなかった。新しい時代が到来した。それを告げる二人の演説であった。

「タンデム」とはこのように二人の指導者が並び立つ体制である。それは帝政時代にもあったし、ソヴェト時代にもあった。先に進む前にこれらを振り返っておこう。

ピョートルとソフィアの「タンデム(双頭)」体制

二人の指導者が並立し、支配する「タンデム」体制は昔から存在した。ローマ帝国が東ローマと西ローマに分裂したのも元を質せばこの故であった。ロシア史ではピョートルとソフィアがその例である。22

ピョートルの父アレクセイ(在位1645−76年)が亡くなったあと、アレクセイの先妻の子フョードル(1676−82年)がアレクセイの後を継いだ。フョードルは病弱で短命であった。子供がいなかったので、フョードルの死後は弟のイワンが継ぐものと考えられていた。ところが、アレクセイの後妻ナタリヤの子ピョートル(1682−1725年)が10歳で即位した。これに対して、イワンの姉ソフィアが反乱を起こし、イワンを第一ツァーリ(皇帝)=イワン五世(1682−89年)とし、自分は摂政となった。ピョートルは第二ツァーリに格下げされ、クレムリンから追い出された。ソフィアは、さらに、ピョートルを亡き者としようとしたが、失敗し、かえって、修道院に幽閉されることになった。23

この時期、ロシアには二人のツァーリが存在し、ピョートルとソフィアの「双頭」体制が形成されていた。

1917年と1993年10月の「二重権力」

「タンデム(双頭)」に類似したものに「ドゥヴォエヴラースチエ(二重権力)」がある。

20世紀のロシアで有名な「二重権力」の一つは、1917年の臨時政府とソヴェトである。もう一つは、ソヴェト同盟崩壊後の1993年のエリツィンの大統領権力とハズブラートフの最高会議である。

「双頭」は二人の最高指導者が並立する状態であり、「二重権力」は二つの権力が並立する状態である。「双頭」は二人の指導者が争うことによって自然に出来る場合と制度として形成される場合がある。また、既成の制度を利用し、人為的に形成される場合がある。

「二重権力」とは、二つの権力が存在し、どちらの側も相手を打ち負かすことができず、単独で支配できない状態である。「二重権力」は常に不安定のシンボル、最高権力が整っていないことのシンボル、「どちらがより重要か」という主要な問題が解決されていないことのシンボルである。

1917年にはソヴェトが臨時政府を潰すことで終わった。1993年10月にはエリツインと最高会議の間で緊張が高まり、火花が飛び散り、それにより周り全体が燃え尽くされた。「二重権力」はエネルギーの放出をもたらし、このエネルギーは歴史の尺度では血によって計られることになる。24

ソヴェト同盟は国家と共産党の最高指導者による「双頭」体制

一般に民主主義的体制においては立法・司法・行政の三権が分立し、権力の集中を回避し、独裁的にならないように配慮している。プロレタリア・デモクラシーは、ブルジョア・デモクラシーとは違い、いわゆる「三権分立」をとっていなかった。

ソヴェト同盟では共産党の指導性と主導性が憲法でも認められ、プロレタリアートの前衛である共産党が政策の基本を決め、国家の機関であるソヴェト(会議)で政策を具体化・決定(立法)し、実行(行政)し、その結果を判定(司法)するという建前になっていた。

これはこれまでの民主主義では国民は投票日だけの主権者であり、投票が終わると、次の選挙まで主権者ではなくなるということに対する反省から出発していた。主権者が常に主権者であるために、主権者自身が政策を決定し、実行し、判定し、さらに、新たな決定をするという考えに基づいていた。

共産党は国民全体の多いときでも10%ほどの少数の党員の集団であるが、国家は党員だけではなく、圧倒的に多い非党員を含む全国民の集団である。現実に国家の組織である各級のソヴェト機関には共産党員とともに多数の非党員が参加していた。ソヴェトは党員・非党員の同盟・協力の場であった。

このソヴェトの最高機関が最高ソヴェト(会議)であり、その幹部会全体が集団大統領とされ、その最高会議幹部会議長(当初は中央執行委員会議長)が国家の最高指導者(国家元首)であった。実際に政策を実行するのは最高会議が任命する閣僚会議(政府)であり、その議長が首相であった。

この中で共産党の最高指導者は書記長や第一書記であったが、国家の最高指導者は最高会議幹部会議長であった。この両者は、法律では規定されていなかったが、長い間、別人とされ、国家では党の最高指導者は国家の最高指導者の下に置かれていた。これが党の独断専行を阻止する制度的保証であった。

ソヴェト同盟は国家と党の最高指導者による「双頭」体制であった。

レーニン・スターリンとカリーニン・シュヴェルニク

ソヴェト同盟が結成された1922年12月30日から1938年1月17日まで中央執行委員会議長はカリーニン。カリーニンは中央執行委員会議長が最高会議幹部会議長と名称が変わった1938年1月17日以降もその職にあり、その職を辞したのは第二次大戦後の1946年3月19日である。カリーニンの後任はシュヴェルニク(1946年3月19日−1953年3月15日)であった。

この間の党の最高指導者は最初、人民委員会議議長(首相)レーニン、1924年1月21日のレーニン死後は党書記長スターリンであった。

レーニン死後の首相はルイコフ(1924年2月2日−1930年12月19日)、モロトフ(1930年12月19日−1941年5月6日)、スターリン(1941年5月6日−1953年3月5日)であった。スターリンは1946年3月15日に人民委員会議議長が閣僚会議議長と名称が変わったあとも亡くなるまでずっと首相であった。

スターリンが党書記長と首相を兼任したのは、差し迫った戦争という緊急事態に共産党の最高指導者が直接対応するとともに、英国のチャーチル首相や米国のローズヴェルト大統領と直接交渉するさいに、スターリンが共産党書記長という一政党の指導者という肩書きだけしか持っていないことが外交交渉を進める上で障害となっていたという事情もあった。

スターリンは党では最高会議幹部会議長のカリーニンやシュヴェルニクの上にいたが、国家では首相として彼らの下にいた。党と国家の最高指導者は異なり、「双頭」体制は変わらなかった。

スターリン死後、「双頭」から「トロイカ(三頭)」さらに「双頭」へ

スターリン死後、マレンコフが首相(1953年3月5日−1955年2月8日)と筆頭書記を兼任し、ヴォロシロフが最高会議幹部会議長(1953年3月5日−1960年5月7日)になった。マレンコフ・ヴォロシロフの「双頭」体制であった。

これは早くも同月14日にマレンコフが筆頭書記をフルシチョフに譲り、フルシチョフが同年9月7日に第一書記となったことによって、フルシチョフ・マレンコフ・ヴォロシロフの「トロイカ(三頭)」体制となった。

マレンコフが首相を辞任した後、ブルガーニンが首相(1955年2月8日−1958年3月27日)となり、「トロイカ」はフルシチョフ・ヴォロシロフ・ブルガーニンとなった。

このあと、ブルガーニンとヴォロシロフが反党グループ事件で失脚し、フルシチョフは党第一書記として首相(1958年3月27日−1964年10月15日)を兼任、ブレジネフが最高会議幹部会議長(1960年5月7日−1964年7月15日)となった。フルシチョフとブレジネフの「双頭」体制である。

ブレジネフ・コスイギンの「双頭」からブレジネフの「単頭」へ

1964年10月14日にフルシチョフが失脚したあと、ブレジネフが党第一書記となり、1966年には「第一書記」を「書記長」と改名し、1982年11月10日に死去するまでその職にあった。

この間、首相はコスイギン(1964年10月15日−1980年10月23日)とチーホノフ(1980年10月23日−1985年9月27日)、最高会議幹部会議長はミコヤン(1964年7月15日−1965年12月9日)とポドゴールヌイ(1965年12月9日−1977年6月16日)であった。形式的にはブレジネフ・ミコヤンとブレジネフ・ポドゴルヌイの「双頭」であるが、実質的にはブレジネフ・コスイギンの「双頭」であった。

ブレジネフがポドゴールヌイの後任として1977年6月16日に最高会議幹部会議長を兼任したことによってソヴェト同盟史上初めて党の最高指導者が国家元首を兼任することになった。これは1982年11月10日にブレジネフが死去するまで続いた。

ブレジネフの「単頭」体制である。これはソヴェト史上異例なことであった。

アンドローポフとチェルネンコの「単頭」からゴルバチョフ・グロムイコの「双頭」へ

ブレジネフ以後の歴代の共産党書記長、アンドローポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフはいずれも最高会議幹部会議長(国家元首)を兼任した。

アンドローポフは1982年11月12日に書記長になり、1983年6月16日に最高会議幹部会議長になった。チェルネンコは1984年2月13日に書記長になり、1984年4月11日に最高会議幹部会議長になった。いずれも前任者の死去によって書記長になってから最高会議幹部会議長を兼任するまでは1年以内であった。

この間、最高会議幹部会議長職は空席であった。議長職空席中はクズネツォフ第一副議長(在職1977年10月7日〜1986年6月18日)が議長職を代行した。アンドローポフとチェルネンコの「単頭」である。

ところが、ゴルバチョフが1985年3月11日に書記長になってから1988年10月1日に最高会議幹部会議長になるまでに3年半以上かかっている。この間、1985年7月2日から1988年10月1日まで最高会議幹部会議長を務めたのはグロムイコであった。この時期はゴルバチョフ・グロムイコの「双頭」体制であった。何故こうなったのか。これは当時の党内事情による。

当時、ソヴェト同盟共産党中央委員会政治局内部では、レニングラード派とモスクワ派の二つの勢力が完全に拮抗し、対立は、ボクシングで言えば、クリンチ(組み合い)が長く続く状態であった。この状態から抜け出る方策をグロムイコ外相が提案した。彼はゴルバチョフを書記長にすることに賛成したが、特別のいかなる意味ある手段もまったくもたない、絶対的に「中継ぎ的書記長」にしょうと考えていた。しかし、グロムイコが考えたいたようにはならなかった。

他方、ゴルバチョフもグロムイコに最高会議幹部会議長のポストを与えるが、「名目的」な国家元首は本質的には何も統治しないという「形式的」なものにしようと考えていた。ゴルバチョフが考えていたようにもならなかった。25

ゴルバチョフ・グロムイコの「双頭」体制になった。

ゴルバチョフ大統領の「単頭」とソヴェト同盟の終焉

ゴルバチョフは1988年10月1日から1989年5月25日まで最高会議幹部会議長を務め、その後、制度を変更し、1989年5月25日から1990年3月15日まで最高会議議長、1990年3月15日から1991年12月25日までソヴェト同盟の最初にして最後の大統領となった。

ゴルバチョフ書記長時代の首相は、前述のチーホノフに続いて、ルイシコフ(1985年9月27日−1990年12月26日)が閣僚会議議長となった。パーヴロフは大統領制への移行にともなって新設された総理大臣に1991年1月14日に就任したが、8月クーデターの失敗後、1991年8月22日に辞職した。26

ロシアでは1917年11月の十月革命後、1991年12月のソヴェト同盟の解体まで74年間、そのほとんどは共産党の最高指導者と国家の最高指導者とは別人が担当する「双頭」体制であった。

1977年6月16日にブレジネフ書記長が最高会議幹部会議長を兼任し、1982年11月10日に死去するまで5年5か月ほど「単頭」体制となって以来、アンドローポフが1983年6月16日から1984年2月9日まで7か月ほど、チェルネンコが1984年4月11日から1985年3月10日まで11か月ほど、ゴルバチョフが1988年10月1日から1989年5月25日まで7か月ほど党と国家の最高指導者を兼任した。この「単頭」体制の期間は合わせて8年ほどである。ソヴェトの歴史全体の10分の1強であった。27

これに上述のゴルバチョフのきわめて脆弱な「単頭」であった1989年5月25日から1991年12月25日までの最高会議議長と大統領の2年7か月を加えても10年強である。

書記長の国家元首兼任は国家私物化の表れ

ブレジネフ以後の歴代の共産党書記長、アンドローポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフもブレジネフに続いて、最高会議幹部会議長を兼任した当時、共産党はわが世の春を謳歌し、ソヴェト体制は盤石にみえたが、実際にはそうではなかった。1975年7月にヘルシンキで開かれた全ヨーロッパ安全保障首脳会議のときがソヴェト同盟の絶頂であった。ブレジネフの時代は「停滞の時代」といわれ、ソヴェト体制の末期症状が露呈し、体制は揺らぎ始めていた。

党の最高指導者が国家元首を兼任することは、レーニンもスターリンもフルシチョフも慎んできたことであった。彼らは国家元首には党員だけでなく、非党員の一般国民も納得できるような穏健な人物、カリーニンやシュヴェルニクやヴォロシロフなどをもってきた。カリーニンは1934年の第17回党大会で1059票の満票により中央委員に選出された人である。28

ブレジネフ以降の歴代の共産党書記長の国家元首兼任は、共産党による国家の私物化の表れであった。彼らはそれを認識できなかった。ソヴェト国民は共産党の指導的役割・主導的役割を認めていたが、ソヴェト国家そのものが共産党のものであるとは認めていなかった。ソヴェト国民の不満は高まり、共産党の指導的役割・主導的役割を認める憲法第6条の条項を憲法から削除し、共産党そのものを権力の座から引きずりおろした。

かつて、「朕は国家なり」と豪語したフランスの王家が革命の中で消え去ったごとく、「党は国家なり」と考えるようになったソヴェト同盟共産党は権力の座から突き落とされた。「双頭」体制は「自制の体制」であった。「自制」できなくなり、「単頭」となったとき、ソヴェト体制は崩壊した。

党は「Party」、「Part」は部分である。部分を全体の上に置いてはならない。

「私」を「公」の上に置いてはならない。

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20 『ロシア2020 国の主要発展課題』エヴローパ社、モスクワ、2008年(ロシア語)、5−29ページ。
21 同上書、31−57ページ。
22 ウラジーミル・ルドリフォーヴィチ・ソロヴィヨーフ/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』EKSMO社、モスクワ、2010年(ロシア語)、21ページ。
23 外川継男『ロシアとソ連邦』世界の歴史第18巻、講談社、1978年、124−127,159ページ参照
24 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン 共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』20−21ページ。
25 同上書、43−44ページ。
26 前掲、イヴキン編『ソヴェト同盟の国家権力――最高権力機関・部とその指導者 1923−1991年:歴史伝記便覧』14,17,20−21,23,29ページ参照。Yu.V.ゴリャチェフ編『中央委員会――ソヴェト同盟共産党・全同盟共産党(多数派)・ロシア共産党(多数派)・ロシア社会民主労働党(多数派):歴史伝記便覧 1917−1991年』パラド社、モスクワ、2005年(ロシア語)、101ページ参照。
27 前掲、ソロヴィヨーフ/ズロービン共著『プーチン − メドヴェージェフ 次は何か』22ページ。