3. メドヴェージェフとは何者か : 「双頭」のロシア -2008年〜2011年- : 現代ロシア社会論(2)

中西 治

メドヴェージェフは大学教員夫妻の一人息子

ドミートリー・アナトーリエヴィチ・メドヴェージェフは1965年9月14日にレニングラードの教育者の家庭に生まれた。父はクラスノダールの技術大学を卒業後レニングラードの大学院に進学し、化学を専攻、レニングラード・ソヴェト記念工科大学で教え始めた。

父方の祖父はクールスク州の農民の家に生まれ、十月革命に参加し、村にソヴェト権力を樹立した。彼は農村の集団化に参加し、1930年代に専門講習所を卒業。独ソ戦争中は政治委員として戦い、戦後はクバンの共産党地区委員会第一書記を務めた。祖父は社会主義の理念を信じ、きわめて誠実な人で、絶対に清廉な人であり、骨の髄まで理想主義者であった。60年間以上共産党員であり、91歳で亡くなった。

母はベルゴロド州の生まれで、ヴォロネジ大学文学部を卒業後、1964年にレニングラードの大学院に進み、作家チェホフに大きな関心を寄せていた。ここで父と知り合い、結婚、1965年にメドヴェージェフを産んだ。母はゲルツェン記念教育大学でロシア語と外国語としてのロシア語を教えるとともに、講習所を終えて、パヴロフスキー宮殿のエクスクルサヴォード(見学者案内人)を務めていた。

私はレニングラードでエクスクルサヴォードの説明を聞いたことがある。美しい抑揚と発音のロシア語、学識の溢れ出る豊かな内容、これこそ名講義であると深く感じ入ったことを覚えている。品のある人であった。

ドミートリー(愛称ジーマ)は一人っ子で、お母さんが美人であることを誇りとしていた。

メドヴェージェフ、14歳のときに熱烈な恋

ジーマは7年生、14歳のときに熱烈な恋をした。冬休み、ピクニックに行き、一人の女子生徒と親しくなった。彼女は同じ学校で学び、顔見知りであった。彼らのロマンスは全校の注視のなかで進んだ。先生たちのメドヴェージェフに対する態度はさまざまであった。二人は勉強を止めてしまい、休憩時間に一緒に遊び、教室から抜け出ることもあった。二人の関係は発展し、変化し、仲が悪くなることもあった。10年生のとき、学年の前半、操行は「不可」となった。ほとんどの科目が「3(可)」であった。全部大変悪かった。両親は大いに不満であった。

メドヴェージェフは後に当時のことを次のように述懐している。

「一つの授業だけにしか出席せず、くよくよしなくなっていた。私たちの関係がまったく私をこのようにしていると気づいたとき、学校を無事に終えなければならないことを理解した。男の理性が働き始めた。2か月間、私はあらゆる義理を断ち切った。学校を結構悪くない成績で卒業した。」

後に結婚し、いまはロシアのファースト・レディーとなっているスヴェトラーナとの出合いであった。彼らには1996年に生まれた男の子イリヤーがいる。スヴェトラーナはかなり厳しい母親である。

メドヴェージェフ、サプチャクと知り合い、政治の世界へ

メドヴェージェフはレニングラード大学法学部を受験したが、昼間部の合格点に達せず、夜間部に入った。父親の勧めで昼間は実験室で仕事をし、夜に学んだ。2年目から昼間部に移り、民法を専攻し、ローマ法の研究に関心を持っていた。彼は「コムソモール(青年共産同盟)」の活動にも参加し、最初は学部の青年共産同盟委員、後には大学全体の委員になった。1986年に大学を卒業し、その後も学部および大学院に残った。丁度、このころ、23歳の時と言うから、1988年にメドヴェージェフは自分の意志で洗礼をうけ、ロシア正教徒となった。スヴェトラーナはそれより前に洗礼をうけていた。メドヴェージェフは1990年に博士候補(修士)の学位を取得、助教授となり、1999年まで母校で教えた。

当時の法学部長で、後にサンクトペテルブルグ国立大学学長となったニコライ・クロパチョフは「メドヴェージェフは強い学生であり、誠実ではあったが、飛び抜けて優れた学生ではなかった。」と述べている。

大学2年生のときメドヴェージェフはサプチャクの講義を聴講した。サプチャクは興味深い人であった。本当にサプチャクを知るようになったのは、サプチャクがソヴェト同盟人民代議員に立候補するときであった。サプチャクがメドヴェージェフとメドヴェージェフの大学の講座の友人たちを招き、選挙の代理人を引き受けるように依頼した。

1990年にサプチャクがレニングラード市ソヴェト議長に選出されると、メドヴェージェフはその参事官になった。1か月ほど経ったとき、メドヴェージェフより13歳年上で、大学の先輩であったプーチンも参事官になった。ここからプーチンとの共同作業が始まった。

1991年6月28日、サプチャクが市長に当選し、プーチンがサンクトペテルブルグ市対外交流委員会議長に任命されると、メドヴェージェフは同委員会の専門家になった。1994年3月にプーチンがサンクトペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)になると、メドヴェージェフは同第一副市長の顧問を務めた。

実はこのころメドヴェージェフはこのような政治的な仕事を続けるべきか、学問の世界に戻り、具体的な法律学の研究に専念すべきかどうかで悩んでいた。彼はすでに完全に大学の民法の講座に復帰していたので、プーチンの委員会での仕事は非常勤ということになった。

メドヴェージェフ、政府官房次長から大統領府副長官・長官、第一副首相、大統領へ

1999年8月16日にプーチンが正式にロシア連邦政府議長(首相)になると、メドヴェージェフは同年11月にロシア連邦政府官房次長になった。

このときもメドヴェージェフにとっては降って湧いたような話しであった。10月初めにセーチンから電話がかかり、プーチンが会いたいとのこと、承知すると、プーチンがやってきて、連邦有価証券市場委員会の責任者になってくれと言う。メドヴェージェフはこの問題については学問的に関心をもっており、実務も少しはしていたので、数日考えさせてくれと答えた。メドヴェージェフはこの問題を博士論文のテーマにしようかとさえ考えていた。ところが、1か月後に出てきたのは、政府官房次長であった。さらに、同年12月31日にエリツィンが大統領を辞任し、プーチンが大統領代行となったとき、メドヴェージェフはロシア連邦大統領府副長官になった。事態の展開は急速であった。あっという間であった。

プーチンが2000年5月7日に大統領に就任したあと、メドヴェージェフはロシア連邦大統領府第一副長官になり、同時に2000年から2001年にかけて「ガスプロム」の理事長、2001年に副理事長、2002年7月から再度、理事長になった。

2003年10月30日に大統領府長官、2005年11月14日に第一副首相になった。2007年12月10日にプーチン大統領はメドヴェージェフが2008年3月の大統領選挙にプーチン大統領の後継者として立候補すると発表した。メドヴェージェフは大統領選挙で大勝し、2008年5月7日に正式に大統領に就任した。

メドヴェージェフの父アナトーリー・アファナーシエヴィチ・メドヴェージェフは2004年に病気で亡くなった。メドヴェージェフが大統領府長官の時であった。

プーチンは首相となり「タンデム(双頭)」体制が発足した。19

その出発点となったのは2008年2月のプーチンとメドヴェージェフの次の二つの演説であった。プーチンは現職大統領、メドヴェージェフは第一副首相、大統領候補者の段階であった。プーチンの演説は8年間の大統領としての活動を総括し、選挙民に報告するもの、メドヴェージェフの演説はこれを引き継ぎ、大統領選挙に臨む、選挙公約ともいえるものであった。

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19 ロイ・メドヴェージェフ『ドミートリー・メドヴェージェフ ―― ロシア連邦大統領』ヴレーミャ社、モスクワ、2008年(ロシア語)、12-17ページ。http://medvedev.kremlin.ru/biography  2011/07/21;http://ja.wikipedia.org/wiki/「ドミートリー・メドヴェージェフ」2011/06/07参照。