2011年タイ総選挙を読む

高橋 勝幸

2011年7月3日のタイ下院議員選挙では、初の女性首相誕生に期待をさせたタイ貢献党に圧勝・政権交代の風が吹いた。

初の女性首相になるか
タクシンの実妹インラック・チナワット
敗北を認めたアピシット

まず今回の選挙結果を見てみよう。投票者は35,203,107人、投票率は75.0%であった。前回2007 年選挙では投票者は33百万人ほど、投票率74.5%であったので、投票者は241 万人ほど増えたが、投票率はほぼ同じである。クーデタ及び現行憲法公布後初めて行なわれた前回選挙と同じく、今回も関心が高かったことを示している。下院の定数は500人、今回と前回の選挙結果を比較すると、タイ貢献党(タクシン派)は233(前身の「市民の力党」[注1]の議席)から265(53%: 括弧内の数値は全当選者中に占める割合。以下、同様) と32議席増やし、民主党は164から159 (32%) と5議席減らしている。比例代表の得票数はタイ貢献党が15,744,190票、得票率は44.7%、民主党は11,433,762票、32.5%である。

投票所風景 開票風景

プームチャイタイ党(市民の力党と中道主義党[注2]から移籍。民主党連立政権参加)は現職32から34 (6.8%)と2議席増やした。70の目標を掲げながらも、タイ貢献党の風を考慮すれば、善戦したといえよう。タイ国民発展党(タイ国民党[注3]と中道主義党から移籍。民主党連立政権参加)は25から19 (3.2%) と6議席減り、チャートパッタナープアペンディン党(ルアムチャイタイチャートパッタナー党とプアペンディン党が合併。民主党連立政権参加)は9から 7 (1.4%) と2議席減り、その他6政党が16議席を分けた。棄権票[注4]は2.9%から2.7%に減っているので、首相府周辺を占拠して黄シャツ(PAD, 反タクシン、反民主党の「民主市民連合」)が棄権票を推進した運動は失敗したといえる。

黄シャツの棄権票推進デモ 棄権票宣伝ポスター

小選挙区選挙は常識的には大政党が有利である。この選挙直前に憲法を改正する法律を制定し、下院議席を480から500に20増やし、比例代表を80から125に45増やし、小選挙区を400から375に25減らした[注5]。今回の選挙では民主党は政権党であったにもかかわらずほぼ現状維持と言ってよく、タイ貢献党は圧勝に見えるが、2005年選挙(377議席)と比較すると勝ちすぎてもいない。

過渡期のタイ選挙の経緯

次に2001年1月6日、2005年2月6日、2006年4月2日(無効選挙)、2007年12月23日の総選挙を比較しよう。

1997年憲法下初の2001年選挙は、小選挙区比例代表制の導入により、2大政党制の素地を作った。政党政治を強化し、内閣とりわけ首相に大きな権力を与えることになった。これにタクシンの個性が相まって、政権党民主党を破ってタイ愛国党(248議席)による一党支配が実現した。

史上初めての任期満了に伴う2005年2月6日の国会議員選挙では、民主党は選挙区で70人、比例で26人、計96人 (19%) の議員を獲得したにすぎず、タイ愛国党の選挙区310人、比例67人、計377人 (75%) を大きく下回った。民主党は相変わらず第2党で、タイ愛国党が圧倒的多数派で政権を維持した。民主党は敗北を受けて、アピシットが党首に就任することになった。

2005年11月、ソンティ・リムトーンクンが反タクシン運動を開始した。有識者からも、その独裁者的性格、言論統制、麻薬取り締まりの荒さ、南タイ問題による死傷者急増など批判が広がっていた。土地と株の取引をめぐって権力の濫用を弾劾し、2006年2月、タクシン退陣要求の声が高まった。民主市民連合(黄シャツ運動に発展)が結成され、街頭デモが続いた。タクシンはデモへの対応として、満を持して国民に信を問うことを決心し、2月24日国会を解散した。

2006年4月2日に総選挙が行なわれたが、憲法裁が無効にした。タイ愛国党は1,600万票、460議席を獲得した。棄権票は980万票で、40議席が空席のままだった。勝ち目のない民主党、タイ国民党、マハーチョン党の野党3党が選挙をボイコットしたからである。国王が「一党、一人のリーダーの選出では民主選挙とは言えない」と司法に介入し、憲法裁の判断となった。その理由は、民主党らの主張と同じく、国会解散から選挙までの期間が短く、小政党に不利というものだった。6月9日には国王即位60周年式典が控えていた。その後、選挙やり直しが模索された。

ところが、タクシンが国連総会に参加している最中、2006年9月19日、軍事クーデタが決行された。タクシン首相がその座を追われ、枢密院議員スラユット・チュラーノン陸軍大将を首班とする暫定政権が発足した。2007年憲法制定(18番目の憲法、8月24日発効)を経て、総選挙が行なわれることになった。

現行憲法下で最初の2007 年12月23日総選挙では、タイ愛国党の後身でタイ貢献党の前身である「市民の力党」は小選挙区199人、比例区34人、計233人(480議席中49%)で、民主党は小選挙区131人、比例区33人、計164人(34%) の国会議員を獲得した。市民の力党党首サマックが首相となったが、料理番組出演料を受領して失職した。続く、ソムチャーイ首相も黄シャツに首相府、空港を占拠され、挙句の果て、2008年12月2日(国王誕生日5日の直前)に憲法裁によって2007年選挙違反で市民の力党が解党処分を受けた。そこで、民主党は第2党であったが、枢密院と軍部をバックにして連立政権を樹立した。これに加わったタイ国民発展党党首チュムポン・シンラパアーチャーは2011年6月初旬、「避けることのできない力によって民主党の連立政権に参加するよう強制された」と述べている[注6]。

主党は農民、下層民の支持を取り付けるため、市民の力党政権のポピュリズム政策を継続、強化した。しかし、第2党であり、直接に選挙を経ずに軍部の支援で誕生した政権には、国会を解散し、選挙を実施して国民の信を問うべきとの声が高まった。とりわけクーデタに反対する赤シャツ(多くがタクシン支持)である。しかし、民主党はそれをせず、体制と軍部に頼って、政権と体制の維持に腐心してきた。信を国民に問うという方法もあったが、選挙を行なっても、タクシン派に負けることは確実だったので、解散もできず、政権に食らいついてきた。その結果が今回の下院議員選である。

任期が残すところ短くなり、赤シャツの要求も高まっていたので、アピシット首相もついに2011年3月11日、5月上旬に国会解散の見通しを明らかにした。そして5月9日に国会を解散し、5 月24日に候補者を受け付け、7月3日選挙の運びとなった。下院議院は任期をあと6か月弱残していた。選挙を半年ほど早めたからといって、主導的に解散権を行使したことにはならない。中西治氏が麻生政権の崩壊時に指摘しているのと同様に、まさに「追い込まれ解散」、「野垂れ死に解散」である[注7]。

タイの政治は21世紀に入ってから重大な変わり目に突入している。2001年の総選挙のときにタイ貢献党の前身であるタイ愛国党は比例代表で1,163万票、248議席を獲得した。それが2005年1,899万票をピークに、2007年には1,234万票、今回1,575万票である。これに対して民主党は2001年に761万票、2005年721万票、2007年に1,215万票、今回は1,140万票である。この10年間に民主党は761万政党から1,140万政党になった。タイ貢献党は1,163万政党から1,575万政党になり、政権党に返り咲いた。2大政党制への趨勢といえるかもしれない。

まとめ

民主党はクーデタ、市民の力党の憲法裁による不可思議な解党処分を経て、体制・軍部を背景に連立政権を樹立し、タクシン派のポピュリスト政策を引き続き実施した。国会解散要求などの反政府運動を激化させ、それを武力制圧し、国内対立を先鋭化させた。反政府運動参加者の殺りく、バンコク中心街及び県庁焼き討ち、政治犯容疑者に対する人権無視の拘留は、復讐心すら巻き起こし、政治不信を刻みつけた。国内対立を反映する社会になり、政情不安がみなぎった。南タイ問題、麻薬問題も深刻である。国民生活については物価高騰、失業問題が家計を逼迫させている。外交ではプレアビヒア寺院をめぐってカンボジア関係が著しく悪化した。世界遺産委員会からの脱退はタイの国際イメージを傷つけた。

燃えるウボン県庁 県庁焼き討ち容疑者

今回、タイ貢献党が勝利し、民主党が敗北を喫したとも言えるが、実のところ、民主党の議員数はさして変化はない。つまり、233議席の第1党に対して164議席の第2党である民主党がこれまで政権を担当していたのが異常なのである。170議席を下回れば辞任すると豪語していたアピシット首相は7月4日、党首を辞任した。下限が170とは政権党としてそもそも弱気といわざるをえない。与党はタイ貢献党がタイ国民発展党、チャートパッタナープアペンディン党、パランチョン党、マハーチョン党を加えて299議席に達し、安定政権の条件が整った。

タイの政治はこれからどのようになるだろうか。いくつかのシナリオが考えられる。第一は最悪のパターンである。アマート(貴族高官)や軍部がタイ貢献党連立政権を認めず、クーデタが起こる。任命による政府、国会が成立する。黄シャツが望んでいる形だ。そうなれば、赤シャツは再び勢いを増し、引き続き混乱が続くだろう。もし、この状況で軍部がクーデタを起こすとすれば、今回の選挙結果が現体制に対する主権者の厳しい批判であることが分かっていないことになる。

第二はタイ貢献党がアマートや軍部と取引し妥協する。これには様々なバリエーションがありうる。選挙で大勝したタイ貢献党はそう簡単には妥協に応じないだろうが、対立から国民和解をめざして、タクシンの処遇を含む政治事件の対応をどうするかのか注目される。赤シャツが強く求める百人近いデモ制圧犠牲者に対する責任追及は既成秩序に及ぶだけに最大の争点である。赤シャツは「恩赦」を認めず、正義(無罪)を主張している。その犠牲者と家族は事実究明と処罰を求めており、補償だけでは済まされない。また、赤シャツの射殺を命じた者が明らかになり、タイ貢献党の妥協の上で恩赦を与えられれば、赤シャツの反発は避けられない。

第三はタイ貢献党が主導的に国民和解を進めることである。政治事件、不敬罪についても進展が見られよう。タイ貢献党を勝たせた赤シャツの政治犯容疑者が無罪放免される。ただし、タクシンに恩赦を与えることに成功すれば、黄シャツなど反政府運動を勢いづかせる。アマートや軍が動き出すことは間違いない。

第四はタイ貢献党が公約を実行できず、政治犯容疑者を見捨て、赤シャツとの対立を深めることである。国民からも信を問われることになる。民主党と同じ轍を踏むことになろう。タイ貢献党、赤シャツのそれぞれ内部でも対立・抗争が発展する。

タクシン政権を経て、タイの国民、とりわけ農村や下層の人々は「政治が変われば、社会が変わる」ことを実感した。かれらの政治参加はタイの政界の再編成をもたらすだろう。産みの苦しみはまだ続く。揺れ動くタイの政治も21世紀システムへと向かいつつある。今回の下院選挙はその軌道修正といえるかもしれない。

1 2006年の無効選挙で違反があったとして2007年5月解党処分となったタイ愛国党を引き継いだが、2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。タイ貢献党が引き継いだ。
2 2007年10月創設。タイ愛国党の受け皿になった政党の一つ。2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により、プームチャイタイ党に引き継がれた。
3  2008年12月、憲法裁の2007年選挙違反判決により解党。
4  投票用紙に、誰にも、どこにも「投票することを望まない」という欄がある。
5 この常識は『タイラット』2011年7月7日号のコラムでも確認できる。選挙区0で比例代表で4議席を獲得したラックプラテートタイ党はその典型である。しかし、政党よりも人物本位で選ぶ傾向が未だ強いタイでは小選挙区が中小政党にも有利であるともいわれる。それはこの法律立案過程を見れば明らかである。今回の選挙ではチョンブリー県のパランチョン党(ガムナン・ポ一族)、スパンブリー県のバンハーン・シンラパアーチャー一族が挙げられる。
6  http://www.mcot.net/cfcustom/cache_page/221154.html, 2011年6月29日アクセス
7  中西治「日本の政治情勢について」2009年7月13日 [2011年7月5日アクセス]。選挙分析は中西氏の手法に倣った。ここに恩師に感謝申し上げたい。また、チェンマイ大学歴史学科の水上祐二氏にも貴重なコメントをいただいた。彼は『時事速報』(7月6日号)で選挙後のシナリオを的確に分析している。

(2011年7月7日脱稿)