プーチンとは何者か : プーチン大統領のロシア -2000年~2008年- : 現代ロシア社会論(1)

中西 治

労働者夫婦の家庭に生まれ、洗礼をうける

プーチンは1952年10月7日にレニングラード市の労働者夫婦の家庭に生まれた。夫婦は1941年6月に独ソ戦争が始まる前に二人の男の子を授かっていたが、二人とも幼くして亡くなっていた。夫婦はともに17歳で結婚し、40歳を過ぎて久しぶりに授かった子に父と同じ「ウラジーミル(愛称ワロージャ)」という名を付けた。

父は車両工場の組立工で、仕事熱心な、真面目で、言葉少なく、ときには厳しい性格の共産党員であり、職場の党組織の書記をしていた。

母は近所の工場で雑役婦をしており、心優しい、言われたことをよく聞く、従順な、おとなしい女性であった。それでも、ワロージャが生まれると、夫に内緒で近所のおばあさんと一緒に赤ん坊を教会に連れて行き、洗礼を受けさせるような意志の強い女性でもあった。

「不良少年(フリガーン)」から「模範少年」に

母はワロージャをいつも身近に置いて育てたいために夫の工場が割り当ててくれた共同住宅の中庭の掃除婦になった。一家はその共同住宅のエレベーターのない5階に住んでいた。ワロージャは保育所や幼稚園に入らず、いつも母親の目の届く中庭で育った。学校には一時間目はいつも遅刻する、喧嘩早い性格の「不良(フリガーン)」であった。

小学校4年生のときにドイツ語のサークルに入った。語学習得の才覚をもった、物覚えのよい利口な子でもあった。

10-11歳でスポーツを始めた。中庭で一番であり続けるために、ボクシングを習い始めたが、鼻の骨を折ってすぐに止めた。ついで、近所のスポーツ・クラブに通い、レスリングと柔道を合わせたようなサンボを始めた。ここで彼の人生を変えるような優れた指導者に巡り会った。この指導者がクラブの全員をサンボから柔道に転向させた。柔道は哲学であった。

それまでワロージャに大きな影響を与えてきたのは、母と中庭と学校であった。とくに「中庭」であった。彼はこの「中庭」を卒業した。「ピオネール(パイオニア=先駆者、少年共産団員)」に推薦された。文武ともに優れた「模範少年」になった。

KGBを志願、レニングラード大学法学部をめざす

ワロージャは「飛行機乗り」か、「船乗り」か、「スパイ」になりたかった。読み漁っていたスパイ小説やスパイ映画の影響をうけて「スパイは一人で数千人の人間の運命を決めることができる」と考えた。

彼は9年生の初め、16歳の時に大きな建物の国家保安委員会(KGB)レニングラード本部へ行き、ここで働きたいと申し出た。出てきた男の人が、ここは希望して入るところではない。自己希望者は採らない。軍隊か、大学・高専などの高等教育機関の卒業者を迎える、と語った。「どこの大学か」と尋ねた。「どこでもよい」。「どのような学部が有利か」、「法学」。ワロージャはレニングラード大学法学部に入ることを決めた。

これは一見、若者の突飛な思いつきのようにみえるが、彼の祖父と父のことを知ると、決してそのようなものでないことが分かる。

祖父はレーニンとスターリンの料理人

祖父はコックであり、1917年の十月革命が成功し、ソヴェト政権が発足したあと、レーニン一家の料理人を勤めた。当時、レーニンは新政権の首相。レーニンの命を狙う反革命派がたくさんいた時代、祖父はおそらくレーニン支持のボリシェヴィキ(多数派)であったであろう。そうでなければ、レーニン一家が口に入れるものを作らせてはもらえなかったであろう。

祖父はレーニンが1924年に亡くなったあと、スターリンの別荘の一つに移り、長い間働いた。1953年にスターリンが亡くなったあとも、祖父はイリインスコエにあったモスクワ市共産党委員会の保養所で料理を作っていた。幼いワロージャ少年はよく祖父を訪ねてイリインスコエに行っている。

父母はレニングラードで死地をさまよう

父は1911年にサンクトペテルブルグで生まれたが、1914年に第一次大戦が始まり、食べるものが無かったのでトヴェリ州のポミノヴォ村に移り住んだ。そこで一人の女性と知り合い、結婚した。ともに17歳であった。

1932年、父母が21歳のときに、二人はレニングラードに出てきた。郊外のペトロゴーフ(後のペトロドゥヴァレーツ)に住んだ。母は近くの工場で働いた。父はすぐに軍隊に入り、潜水艦隊に勤務した。除隊後、年子(としご)で二人の男の子が生まれたが、そのうち一人は数か月で亡くなった。

1941年にヒトラーのドイツ軍がソヴェトに進攻してくると、父は志願して軍隊に入り、レニングラードの防衛に従事し、幾度も死地をくぐり抜けた。母はドイツ軍に包囲されたレニングラードで食料不足によりひもじい生活を強いられ、餓死寸前までいった。もう一人の男の子はジフテリアで死亡した。父母の肉親にも多くの死者が出た。父母はレニングラードで死地をさまよった。(2)

祖父も父も共産党員で、自分もスポーツも、勉強もでき、ピオネールにもなったワロ-ジャが9年生の初めにKGBをめざしたことは不思議ではない。

KGBは「正義の味方」、「勇敢な愛国者」

日本ではKGBは大変評判が悪いが、ソヴェトでは「体制の擁護者」であり、「正義の味方」である。彼らは外国語を身につけ、外国に行けるエリートである。それでは保守主義者のエリート集団かというと必ずしもそうではない。

第一に、彼らは民衆の不満を誰よりもよく知っている。それを知り、対策を立てるのが仕事である。第二に、外国の実情をよく知っている。とくに、科学技術の水準においてソヴェトが外国にどれだけ遅れているのかをよく知っている。彼らは体制の擁護者であると同時に体制の改革者でもある。

ソヴェト時代、1983年にモスクワ大学のなかで映画を見たことがある。1917年の革命直後の内戦を描いたものであった。スクリーンにKGBの前身である「非常委員会(ChK=チェカ)」の職員(チェキスト)が出てきたとき観客の学生が拍手するのを聞いた。KGBの職員も「チェキスト」といわれるが、「チェキスト」は「正義の味方」であり、「勇敢な愛国者」である。

KGB職員からペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)へ

1975年、プーチンは国立レニングラード大学法学部国際学科を卒業すると、大学の派遣によりKGB職員となった。一連の研修を受けていた1983年7月28日に結婚し、長女に恵まれた。1985年にドイツ民主共和国(東ドイツ)のドレスデンに赴任し、ソヴェト・ドイツ友好会館の館長になった。ここで次女を得た。

1990年に帰国し、KGB職員の身分のまま、母校レニングラード大学学長の国際問題補佐となり、続いて、レニングラード市ソヴェト議長参事官となった。1991年6月28日にサプチャクがサンクトペテルブルグ市長に当選すると、同市の対外交流委員会議長になった。

1991年末にソヴェト同盟共産党とソヴェト同盟がなくなると、翌1992年にKGBでは中佐として「現役」を終え、「予備役」となり、「予備役大佐」となった。ソヴェト同盟共産党からは脱党せず、党員証はいまもプーチンの手元に残っている。1994年3月にペテルブルグ市政府第一副議長(第一副市長)となった。

モスクワへ、首相に、父の臨終に立ち会う

1996年8月、サプチャクが市長選挙で敗北したあと、プーチンは活動の場をモスクワに移し、ロシア連邦大統領総務部長パーヴェル・ボロジーンの副部長になった。

1997年には国立サンクトペテルブルグ鉱山大学から経済関係の論文で博士候補(修士)の学位を授与された。同年3月26日にはロシア連邦大統領府次官兼ロシア連邦大統領監督総局長になった。

1998年5月25日にはロシア連邦大統領府第一次官、同年7月25日には古巣のKGBが改組されたロシア連邦の連邦保安局(FSB)長官に任命された。

1999年3月29日にロシア連邦安全保障会議書記になり、同年8月9日にロシア連邦政府議長(首相)臨時代理に任命された。同日、エリツィンはテレビ演説でプーチンを大統領の後継者に指名した。8月16日にプーチンは正式に首相になった。

プーチンが首相になった数日後にプーチンの父はペテルブルグで亡くなった。プーチンは忙しい中、毎週週末にはモスクワからペテルブルグに戻り、父を見舞い、臨終に立ち会うことができた。父は自分の名、ウラジーミルをプーチンに付けたが、それはレーニンの名でもあった。「ウラジーミル」とは「ウラジー(支配せよ)ミール(世界を)」という意味である。首相となり、エリツィンの後継者として大統領になる息子を見て、父はきっと満足してこの世を去ったことであろう。プーチンは親孝行な子供である。

大統領から再び首相に

1999年12月31日にエリツィンが大統領を辞任したあと、プーチンは大統領代理になり、エリツィンから「核の小ケース」を含む大統領権力の象徴を受け取った。2000年3月26日、プーチンはロシア連邦大統領に当選し、5月7日に正式に就任した。

2004年3月14日、プーチンは二期目の大統領に当選、5月7日に正式に就任、2008年5月7日に任期満了とともに大統領を辞任し、ドミートリー・メドヴェージェフと交代、同日、新大統領により首相に指名され、翌8日、正式に首相になった。メドヴェージェフ・プーチンの「タンデム(双頭)」体制が発足した。(3)

プーチンはなぜ大統領になれたのか

第一は、エリツィンがプーチンを見込んだからである。時代は大変動のあとの安定と秩序を求めた。KGB育ちのプーチンは時代が求める指導者であった。時が味方した。

第二は、プーチンの機敏で「果敢な」行動である。プーチンは一連のテロ事件をフルに利用し、チェチェンに対する戦争を積極的に推進した。「必要な人が必要な時、必要な場所に現れた。」

第三は、プーチンの政治的現実主義である。プーチンはロシア共産党の現実の力を認め、これと妥協した。同時に、大統領選挙での野党の統一候補擁立を阻止した。プーチンはしたたかな政治家である。

第四は、国民経済の一定の回復と国民生活の「奇妙な安定」である。1998年の金融危機は輸入を減らし、国内生産を増やすことになった。生活は低い水準ではあるが、安定し始めた。なんとなく先に希望が持てるようになった。プーチンは運の強い人である。(4)

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2) プーチンの生い立ちは、ゲヴォルキャン他著『第一人者から ウラジーミル・プーチンとの会話』VAGRIUS、モスクワ、2000年(ロシア語):高橋則明訳『プーチン、自らを語る』扶桑社、2000年、参照。

3) ロイ・メドヴェージェフ『ウラジーミル・プーチン』若き親衛隊社、モスクワ、2007年(ロシア語)、682-683ページ;前掲、ゲヴォルキャン他著『第一人者から ウラジーミル・プーチンとの会話』132ページ:高橋則明訳『プーチン、自らを語る』176ページ。

4) 前掲、中西治『現代人間国際関係史』、466ページ参照。