赤シャツ村訪問記: マハーサーラカーム県コースムピサイ郡ドーングローイ村を中心に

高橋 勝幸

赤シャツ村については、『日刊マティチョン』2011年6月10日号(1)に特集がある。それによると、最初の赤シャツ村は2010年12月15日にウドーンターニー県ムアン郡のノーンフーリン村にできた。現在、ウドーンターニー(以下、ウドーン)、コーンケン、マハーサーラカーム県を中心に300以上あるといわれる(2)。それらは赤シャツが6-7割を占める村だそうだ。村民は現在、当然のごとくプアタイ党を支援している。2011年7月3日の総選挙を8日後に控えた6月25日、筆者は赤シャツ村を訪れた。前日にコーンケン県市内に入った。25日朝、ホテルのフロントで「赤シャツ村に行きたいのだが」と話すと、女性はキョトンとしていた。日本からわざわざ取材にでも来たのかという調子だった。しばらくして、行き先と行き方を教えてくれた。早速、教えられた乗り合いバスをつかまえると、「赤シャツ村には行かない」と言われた。教えてくれたのは、どうも赤シャツが多い住宅地であったようだ。バスターミナルへ行って、三輪タクシー(トゥクトゥク)に赤シャツ村へ案内してもらうことにした。1台目のトゥクトゥクは赤シャツ村がどこにあるか知らないと正直に答えてくれた。2台目のトゥクトゥクは「知っている」というので、それに乗った。乗って5分も経たないうちに、赤シャツの街宣車に出会った。「誠実でない、嘘つきのアピシットに対して、選挙で戦おう」とスピーカーで流していた。案内された所は、赤シャツの小さな拠点で、家電製品の卸問屋のような所だった。プアタイ党の遊説カーが1台停まっていた。そこで何人かに聞いたが、赤シャツ村の所在はわからなかった。話の通じる人がいなかったので、バスターミナルに戻った。筆者は東北タイのトゥクトゥク、タクシー、バスなどの労働者は皆赤シャツだと信じ込んでいる。メーター・タクシーやトゥクトゥクの運転手に聞いてもわからずじまいだった。バスターミナルの案内人に聞くと、赤シャツ村は郊外にあり遠いという。マハーサーラカーム県にある赤シャツ村が行きやすいと教えてくれた。

ウドーン、コーンケン、マハーサーラカームに300近く赤シャツ村があるというから、筆者は簡単に行けるものだと思い込んでいた。筆者の住むウボンラーチャターニーからはウドーンは遠いし、マハーサーラカームは赤シャツ村が少なそうだから、コーンケンを選んだ。コーンケンまでバスで5時間近くかかった。ウドーンへはコーンケンからさらに2時間かかる。コーンケンからマハーサーラカ-ム行きのバスに乗り、乗務員に「赤シャツ村に行きたいから、近くに着いたら教えてほしい」と頼んだ。バスに乗ってしばらくすると、雨季に入って苗を植えたばかりの水田が広がった。この中を自家用車もなしに、赤シャツ村に到着するのは容易ではないと思うようになった。うとうとしていると、「赤シャツ村です」というアナウンスがあった。マハーサーラカーム県市内のちょっと手前だった。確かに何やら入り口に赤旗が立っている。それは寺院だった。赤シャツのラジオ局が境内に設置されていた。赤シャツ村ではなかった。放送を終えたばかりのDJウィーラポン・クーリーランが筆者に親切にしてくれた。同県の赤シャツの創設メンバーの一人と自称する。彼はマハーサーラカーム大学の英語教員を定年退職した。チャムローン・ダーオルアン(3)の親戚筋だという。彼に、赤シャツ村の案内者を紹介してもらい、市内バスターミナルまで送ってもらった。コーンケンの方へ30キロ戻ることになった。コースムピサイ郡(市内からバスで40分)のバスターミナルに赤シャツ・リーダーが車で迎えにきてくれた。

赤シャツ・リーダーの話

迎えにきてくれたのは、マハーサーラカーム県の反独裁民主戦線(ノーポーチョー、赤シャツの中央組織)の事務局長でスティン・クランセーン博士(4)(元パラン・プラチャーチョン党国会議員)に次ぐナンバー2である。名前はチャートアーティット・タンタラック(51歳)、ラームカムヘーン大学を卒業した弁護士だ。1992年5月の民主化運動に参加した。赤シャツ村に行く前に、彼の法律事務所で、赤シャツ村のレクチャーを次のように受けた。

「ノーポーチョーが認める赤シャツ村はマハーサーラカーム県には今のところコースムピサイ郡フワクワーン区のドーングローイ村一つしかない(5)。同県のノーポーチョーの議長であるスティンが2011年5月17日に発足式を執り行なった。ドーングローイ村は8割以上が赤シャツである。赤シャツ村ができて1ヶ月余がたつが、6月16日、同県知事によって赤シャツ村の宣言に対して法律違反の疑いがもちあがった。しかし、法律にそのような規定はない。思想の自由を制限する方がかえって法律違反である。

「赤シャツ村の宣言は、村民の合意があって、その上で村長も承認していることが前提条件である。数日前も赤シャツ村を宣言した村があり、自称の赤シャツ村は既にいくつかある。公認を得るには、主導権争い・もめごとがないか、村民の合意が取れているか、本気度を確認する必要がある。

「赤シャツ村の目的は、民主主義を求め、助け合って戦うことである。その理由は、法の下の平等がなく、二重基準がまかり通っているからだ。活動は赤シャツ村宣言をした以外は、他の赤シャツと同じである。すなわち、集会と選挙監視だ。監視とは公正な選挙が行なわれているか、選挙権の資格、買収などに警戒することである。赤シャツ村宣言の影響は、内部に対して誇りを生み、他県に対して勇敢さの見本として励ましとなっている。

「赤シャツ村設置と選挙とは関係がない。その証拠に、ずっと以前にできた村がある。準備次第だ。赤シャツ村より進んだ村もある。実際、選挙運動は必要ない。

「赤シャツは民主主義を要求しているだけで、イデオロギーはない。」

赤シャツ村へ入る

赤シャツ村入り口、
左手にプアタイ党の選挙看板が見える
入り口に立つ赤シャツ婦人

以上のような説明を聞いたうえで、赤シャツ村へ行った。赤シャツを着た婦人が5人、村の入り口にたむろしていた。彼女らが言うには、同村は約300世帯千人(6)から構成され、主な生業は稲作で、自家米の残りを売って生計を立てている。筆者は次のように質問した。

―赤シャツとして何をしているか。

「私たちは民主主義を要求している。難しいことを言っているのではない。二重基準を批判しているのだ。赤シャツが不当に逮捕されている。正しいことと誤っていることが逆転している。以来、政治に強い関心をもつようになった。マハーサーラカームの赤シャツがバンコクの制圧で殺された。武器を持たない素手の人間だ。誰が殺りくを命じたのか。アピシットだ。」

―赤シャツ村ができて何か変わったか。

「赤シャツ村ができて、嬉しい。それ以外に特にできる前とできた後で変化はない。」

―選挙運動に関わっているか。

「皆外見はどうでも、心は赤シャツなので、選挙活動は不要である。プアタイ党が勝利したら嬉しい。女性首相が生まれる。女性の方がいい。アピシットは国会解散の要求に耳を傾けなかった。アピシットはうそつきで、不誠実だ。その政治は二重基準で汚職まみれだ。私たち田舎者は誠実でうそをつかない。借金漬けにしたアピシットは最悪だ。今、物価が高い。それに比べて、タクシンはいい人だ。」

―タクシン政権のどこがよかったか。

「タクシン時代、一村一品運動に参加し、特産品を作ったがよく売れた。30バーツ医療政策をよく利用した。アピシットはそれを真似ただけだ。タクシンの前は人物本位で選んだ。タイ愛国党の政策に賛同し、ためしに投票し、お手並みを拝見した。口だけのアピシットと違って、公約を実行した。」

―長いこと、民主主義を要求して疲れないか。

「私たちは後方部隊なので疲れない。(赤シャツ)テレビを見て情報をアップデートしているだけで、集会に参加していない。」

婦人の中の一人、ムンさんは2010年3月から5月までのバンコクの赤シャツ集会にトータルで2ヶ月参加した。彼女は筆者に訴えた。「5月19日に、パトゥムワナーラーム寺(7)の向かいにいた。中にいたら殺されていた。高架鉄道(BTS)の線路には兵士が並んでいた。そこから銃弾が発せられた。4月から5月までの殺人が最大の憎悪を生んだ。赤シャツの運動は勢いを増した。」

赤シャツ男性は次のように筆者に話した。「2009年から赤シャツの活動に参加した。コーンケンの友人から紹介された。その頃は、この村にまだ赤シャツはいなかった。その後、メディア、特に赤シャツのテレビ放送の影響で赤シャツが拡大した。」

赤シャツ村の中:
プアタイ党選挙看板と赤旗
赤シャツ村の中にある民主党選挙本部

村の中で変わったところといえば、家の前に赤旗を立てるぐらいだった。しかし、この赤シャツ村の場合、同じ村の中に民主党4区の選対本部があった。もちろん、赤シャツ村ができてから、設置されたものだ。嫌がらせのつもりだろうが、赤シャツは特に気に留めていない。

赤シャツ選挙支援集会

筆者は25日、マハーサーラカーム県赤シャツ事務局長に同行することにした。選挙を前にして、毎晩どこかしら少なくとも一箇所で区単位の集会が行なわれているという。集会は闘争の一つで、協力して独裁に反対し、民主主義を推進する政党を支援する。弁護士が職業である彼は集会について「政党名は言えないが、赤シャツが支持する政党は一つしかない。言えないのは、選挙法にひっかかるからだ。演説会は許されるが、音楽など華美な集会、誹謗中傷、脅迫は禁じられている。批判は可能であるが、中傷と批判の線引きは難しい」と説明した。

赤シャツ選挙支援集会

マハーサーラカーム大学に近いチャンプラディット寺(カンタラウィチャイ郡カームリアン区マコーク村)の広場で赤シャツの集会が行なわれた。当選挙区はプアタイ党とプーミチャイタイ党の一騎打ちで激戦区である。というのは、プーミチャイタイ党が県行政機構長(インヨット・ウドーンピム)を候補者に立てたからである。19時30分から演説が始まった。弁士は菩提樹の下の壇に立った。特設ステージはない。この時点で大人は30人くらいで、戯れる子どもの方が多かった。いすも用意されておらず、ござやサンダルを敷いて座っていた。

20時に同県ノーポーチョーの事務局長チャートアーティットがマイクを握った。この時、聴衆は百人ぐらいいた。まず、「今日は候補者は来ない」と前置きした。そして、「我々は長い間、民主主義を要求してきた。軍部より上の、政府よりも上のセーンヤイ(強力なコネ)がタイの政治を牛耳っている。アムマート(貴族高官)制度である。スラユット・チュラーノンら枢密院が強い影響力をもっている」と現状を述べた。当面の任務として、①政治犯・収容されている赤シャツの釈放、②アピシット、ステープ、将校ら人民の殺りくを命じた者の処罰、③政党解散を容易にする二重基準で任意的な2007年憲法の廃止と1997年憲法の復活、④赤シャツ村、赤シャツ村長、赤シャツ区長の推進、⑤選挙監視の5つを掲げた。その上で、7月3日の選挙の意義について述べた。「今回の選挙はアムマートの国するか、プライ(平民農奴)の国にするかを決する選挙である。第1党が政府をつくらなければならない。第1党が251以上の議席(500議席)を獲得すれば問題はない。しかし、第1党が過半数を獲れなかった場合、アムマート、見えざる手、セーンヤイが介入し、第2党、第3党から政府を作り、民主主義に危殆が生じる(8)。それゆえ、断固、過半数を獲らなければならない」と。

次に同県ノーポーチョー代表スティンがイサーン語(東北タイ方言)で演説した。「今日は、レッドカードが出る恐れがあるので、候補者は来ない。今、区ごとに集会を行なっている。タクシンは4年の任期を全うした唯一の首相である。IMFの借金を完済した。2期目も377議席を獲得した。そこで、嫉妬が起こった。タイ愛国党は解党処分となった。妻が土地を購入し、タクシン元首相は禁固2年の判決を受けた。2007年選挙はイサーン人の力で勝利し、サマック首相を生んだ。料理番組に出て、サマックも首相の座を追われた。ソムチャーイ首相にいたっては、首相府を不法占拠され、2ヶ月で憲法裁の判決で退陣となった。当時教育委員会委員だった自分は、飛行機でバンコクに行き、ピックアップで地元マハーサーラカームに帰る羽目になった。フカヒレスープを食べていたのが、蛙のスープをすするようになった。妻は呆れた。アピシットがいなければ、頭が痛いことにはならなかった。頭痛の種がなければ、赤シャツは出現しなかった。タクシンは30バーツ医療政策、老齢者に対する福祉、公共のボランティアに対する謝金支払い、公務員の給与アップ、村長・区長の給与アップ、農民の収穫補償を実施した。アピシットは口だけである。大学院を出ても仕事がない。麻薬問題が深刻になっている。ラーチャプラソンでなぜ政府は人民を殺したのか。最近、赤シャツ村、赤シャツ村長を取り締まろうとする動きがあった。……」と。

最後に、資料が配布され、投票が無効にならないように投票用紙の記入方法の説明があった。22時10分過ぎに解散となった。最大時、約200人の聴衆がいた。女性が7割で、30代後半以上が多かった。筆者の回りは壮年ばかりで、酒臭かった。飲んではいないが、飲んできたようだ。

むすび

この手の赤シャツの集会には、候補は来れないかもしれない。巧みにプアタイ党への言及を避けているものの、前身のタイ愛国党の業績、パラン・プラチャーチョン党の解党、タクシンの政策手腕への賞賛、サマック、ソムチャーイに対する言及、アピシット首相に対する非難は選挙法に触れるかもしれない。赤シャツによる現体制、アピシット、民主党への批判は厳しい。一方の民主党は6月23日、ラーチャプラソンで街頭演説会を行ない、躍起になって赤シャツの射殺に対する責任を回避している。

マハーサーラカーム県は赤シャツが一つのグループに結束しているという。同県の赤シャツの強みは、県の規模が小さく、スティンというリーダーがいることだと筆者は思う。

選挙や運動にはタマが必要である。その意味でインラック・チナワットは最高のタマだ。タクシンの妹、タクシン人気、女性、美人と来ている。ヨンユット・ウィチャイディット党首代行では影が薄い。インラックなら応援しやすいし、応援したくなる。

次の問題は選挙後である。赤シャツが掲げていた国会解散、選挙実施という当初の目標が達成する。プアタイ党が勝利した場合、反政府運動を展開してきた赤シャツはいかに運動の勢いを維持していくのか。求心力低下は避けられないのか。何を敵として戦うのか。新しいタマを打ち出せるか。期待が高いだけに、プアタイ党の政治に対する失望は生まれないか。黄シャツやアムマートはどう反応するか。興味は尽きない。

(ウボンラーチャターニー大学教養学部東洋言語文学科講師)

1 筆者が実際に見たのは6月9日。

2 マティチョン』同号によれば、ウドーン県には1,635村中、213の赤シャツ村があり、コーンケンには210村ある。その他に、南タイのトラン県でも5月29日に赤シャツ村が生まれた。選挙運動員(フア・カネーン)との謗りを恐れて、総選挙後にさらに赤シャツ村が誕生すると報じられている。最初の赤シャツ村として国内外のメディアに取り上げられてから、ノーンフーリン村は治安維持本部や当局の監視を受けるようになり、嫌がらせの電話もかかってくる。当局は赤旗の撤去を要請した。同村はそもそも県庁焼き討ちの嫌疑に対して、国家権力を恐れないことを示すために、赤シャツ村の宣言をした。最近では軍事教練所の嫌疑をかけられている。また、王制廃止要求という言いがかりについては、王室と政治の分離を要求しているだけだと主張している[“‘Red’ Udon Thani villagers deny training militants,” The Nation, June 27, 2011]。

3 マハーサーラカーム県の自由タイのリーダーで、インドシナ独立運動に対する武器支援を担った。元閣僚で、プリーディーの武装蜂起に連座して、1949年3月、警察当局によって暗殺された。チャムローンに次ぐ自由タイのリーダーである同県国会議員ナート・ガンタープ(現ラーチャパット大学の前身の校長)はウィーラポンの父親と親しかった。やはり自由タイで、同県国会議員であったディロック・ブンソームとも親しく、家が近所だという。

4 スティンはパラン・プラチャーチョン党の解党処分に伴い、2008年12月選挙権を失った。元マハーサーラカーム大学学長補佐。

5  ドーングローイ村は実際は第6、第17、第20の3つの村からなる。

6  不正確であると思われる。

7 看護士を含む6人が銃殺された。多くの赤シャツが、寺院は安全だと信じて避難していた。

8 タイ国民発展党党首チュムポン・シンラパアーチャーは2011年6月初旬、「避けることのできない力によって民主党の連立政権に参加するよう強制された」と述べている[http://www.mcot.net/cfcustom/cache_page/221154.html, 2011年6月29日アクセス]。